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 森の夜は、昔、神護の森で一夜をこどもだけで明かしたことを思い出す。
 そのときのディアスと、今のディアスは、同じだけれど、違う気もしていた。
 レナが彼の背中に歩み寄る途端、ふ、とディアスの気配が和らぐのが見て取れた。
 視線を焚き火に向けたまま、声を向ける。
「眠れないのか? レナ」
 冗談でも驚かすつもりはなかったにしろ、なんで分かったのかしら、と内心首をかしげつつ隣に座った。
「ちょっとね。えと……、でもなんで?」
「レナの足音はわかりやすい」
 口の端を少しひき、かすかに笑う。
「もぉヒドイ、そんなにドシドシ歩いてないわよ」
 もっと朗らかに笑う人だった彼は、二年の間に、否、あのときのことで、心を沈めてしまっていた。
 決して鎮まらない、燻る炎のような心になってしまった。
 違う姿。それは、そのせいだけだろうか。
「ミルク、あたためるわね」
 ミルクとポット、そしてディアスと自分のコップを荷物から取り出し、火の前にかける。
 ぽとぽとと牛乳の匂いが、木の爆ぜる匂いと重奏した。
 温まる間に、ディアスの肩に頭を触れさせる。自分からしたことなのに、どきりと心臓が跳ね上がった。
 あちらに一瞬だけ、身じろぐような気配を感じたが、すぐになくなる。
 ああ、何かしら。この、匂い。不思議な匂い。
 昔のように安心する、だけれど一つ、違うものがまじっていた。
 そんな焦燥を宥めるように、夜風は気持ちいい。
「夢を、見ていたわ」
「悪い夢でも見たのか?」
 落ち着いてはいるけれど、子どもをあやすような口調。
 ディアスの汲んだ意味とは相反するように、傍らの娘は、凛とした寂しげな瞳で炎を見つめていた。
「いい夢も、悪い夢も。ディアスがいない間、私はディアスの夢を見たわ」
 ディアスは、足元の小枝を炎の中に放り込む。
「ディアスが村から出て、いろんなことをしてるのを空からとか後ろからとか、時々はディアスと一緒にいることもあったわ。
 ああディアスはきっとこんな旅をしているんだな、って思ったわ。ディアスの夢を見た朝は、なんだか不思議な気分になったのよ」
「そうか」
 短い返事。だから、レナの言葉はそこで終わってしまった。
 だけれど、舌を動かし唇を開き、彼女はまた声を上げる。
「ね」
「ああ」
「……なにしてた?」
「不寝番だが」
「そうじゃなくて」
「…………」
「私に、話せないこと?」
「ああ」
 胸に刺さる。
「今は、……話したくない」
 二年間の彼は何をしていたのだろう。
 拒絶されていた間。
 再会した時の冷たさに、少し怯えた。
 一緒に過ごしていた頃と、ディアスは少しだけ、一つ分だけ、違っていた。
 それが何なのか、気になってたまらなかった。二年の間の出来事に、隠れているのだろうか。
 炎に照らされるディアスの横顔は、きれいで少しだけ、怖かった。
 怖い、なんて彼に感じたことなかったのに。
「話せないことじゃ、ないわよね?」
「……ああ。でも、今は」
 辛そうに眉間をしかめるのさえも、かすかな仕草。
 うん、ううん、と首を縦に、そして横に振る。マントと額がこすれた。
 顔をうずめて、腕をなかば抱きかかえるように、訴える。
「違うの、いいのよ。『話せないこと』じゃなければ、いいの」
 気になっているのは変わらない。だからこれは嘘だけれど、今はそれだけでよかった。
 いつかならば話してくれる、という保障だけで、よかった。安心できた。
 確かめていた己が恥ずかしくなるほど、ディアスはやはり、悪いことなど何一つしていない。
 そんな彼が、今こうして傍にいてくれることだけで、よかった。充分だと思えた。
「神に誓う。心配をかけたな」
「セシルに誓ってよ」
 赤色の瞳は少し硬くなるが、すぐに揺らめき、レナの頭を優しく大きな手のひらが覆う。
「妹たちに誓って。俺はお前たちの兄であることを、忘れない」
 優しい声が、あの頃のようにレナの心をすっぽりと包む。
 だけど、なぜか。なぜかほんのひとつだけ、胸に刺さる匂いはあった。
 あのときからの一つだけの違い。
 この匂いは、少しだけ怖くて、焦燥がして、胸高鳴り踊り、だけどやはり心地よい。
 知っている兄の匂いではないけれど、傍にいたいと切望させる匂い。
 さぁ白いミルクは温まり、ぬくもりの湯気を届ける。
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