pit-a-pat.

 ふわふわと、甘くて少し苦いもの。
 ブランデーワインの上の階、楽園のような羽根布団をどうぞ。
 階段を登る、全身バッカスな天国漬けのオペラの腕を支えるのは、クロードの逞しい、そうなりつつある青年の肩。
 呼吸の音と同じに揺れる、胸の鼓動が滑らか。腕から手から指先から、すべてから、傍にいるしるしを告げてくれる。遠い記憶の片隅じゃないことを告げてくれる。
 宵の口の、冷えた空気がせっかく気持ちいいのに、部屋に帰るようにクロードは急かす。オペラは持ち帰りのグラスの首を指で回し、縁を軽く頬に当てるだけ。拗ねた仕草。
 それが正しいのは、確かに分かるけれども、つまらない。眉の緩い一文字、いつもどこか真面目な彼。こっちを誘うように言えないものかしら、なんて内心こっそりオペラは苦笑するけど、ついて行くのに不思議と不満は湧かなかった。
 クロードは酒豪の母の話を呟いた。懐かしいことを口にするのは、彼も少し酔っている。
「うちの母さんもお酒、強いんですけれどね……」
 強いのは、酔わないわけではない。今の彼女と同じように。遠まわしな忠告も含めた世間話に、オペラは異様な乗り気を見せた。潤い満ちて、からりと笑う。
「是非ともお母様にお会いして、酌み交わしたいものね」
 冗談めかした柔らかい口ぶりを舌に乗せる癖、まるで猫科の眼差しが青年の瞳を射る。途端、クロードの脳裏には鮮明な未来が浮かぶ。意気投合し、呑み比べで火花を散らし、陽気な笑いをする二人の姿。そしてそのあと、ぐでんぐでん。
「二人も介抱するの大変なんですから、ほどほどにお願いしますよ」
 止めたりしないのね、と応えに胸をくすぐられる。今みたいに困った顔して、少し怒った様子で嗜めて、もう知らないと言いながら支えてくれる。そんな彼の想像がつくから、また喉を震わせた。
 そんなに甘いと、いいように使われちゃうわよ。たとえば私みたいな悪い女に。
「あら、そのときはよろしく。あなたの話で盛り上がるわよ~」
「もう……僕の話なんていいじゃないですか。恥ずかしい」
 軽い笑いに含めた言葉に返ってくるのは、溜息と同調した諦め。何故かとても可笑しくて、こそばゆい胸から笑いが込み上げた。
「たくさん。たくさん、ね」 
 さっきの言葉。今は遠い場所の恋人だったら、すぐに察しをつけてくれただろう。だけど、鼻先の彼には届かなかった。彼女は思いもよらず、比べてしまう。比べるような場所に立っているなんてことが、予想外。
 あなたの話をあなたのお母様とさせてちょうだい。それがどういう意味だか、気づいてる?
 不具合なリズムに苛立ってもいい筈、それなのに、胸の鼓動がまだ心地いい。少しテンポが熱くて若くて、ときめいた初恋の匂いばかりしている、この胸の先に咲く音。
 なぜかしらね。
 こんなに真面目で、察しが悪くて、こどもっぽい男の子なんて、苦手。それでも最初よりかは、幾分『男』になっているかしら。
 彼女の好みと違う筈のこの姿に触れるたび、優しい顔した蝙蝠羽がキスをする。アルコールに棲んでいるそれを手の甲見せて弾くには、……あとほんの少しだけ待ちなさい。
 ゆっくりとした足取りで階段を一つ登りきり、オペラは悪戯の声を囁いた。
「ふふふ。そうね、踊らない?」
 独りだけ、手のひらの上で踊るなんて、つまらない。
 腕を引き離して近づいて、酔っ払いなりにダンスのスタンス。
 唐突なお誘いに、クロードは肩を竦めた。
「こんなところでですか。迷惑になりますよ」
 いやあね、背伸びするなんて。バカみたい。こんなときくらいこどもになるのが、大人の嗜みよ。
「ここは踊り場って言うくらいだもの。踊りましょ。こんな夜のこんな場所、きっと誰もいないわよ」
「僕らはいますよ」
 何て返しかしらね、混乱してるのかしら。
 混乱するなら、あともう一歩。足元は踏み外しかけるのが、きっと丁度いい。酔っ払いの傲慢は、火薬のように愛らしく爆ぜるべき。
 他に誰もいなくて私たちはいる、それだけで世界みたいになっている、嘘っぽさ。本当の世界なんて今だけは教えないで。
「そう。私とあなた、今はここに二人きり」
 静かに静かに、音楽が耳の奥に蘇る。
 声なしに開く唇に合わせて、そう、踊りましょう。そう、あら、意外と上手じゃない。彼のぎくしゃく動く身体と、染まる頬がなんとも初々しい。
 男性をリードするのは初めてだけれど、それもたまにはいいかもしれない。気の迷いが延長戦に突入しそうな心が、ただ今は可笑しかった。二人きりで踊るだけの、そんなことでも、まるで恋みたいなふわふわと、甘くて少し、
 危ない匂い。
 足音だけは絨毯が吸い込んでいく。
 転ばないように、迷宮の罠を踏まないように、誘って響く pit-a-pat.



※pit-a-pat.
英語。(足音の)パタパタ、(心臓の)ドキドキなどの擬音
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