インユアワーズ



 クロードが慌てふためいた様子で、周囲を見回していたのは少し前の夕暮れだ。
 周囲というより、地面。砂利の足元に目を見開いていた。
 彼より数歩遅く店を出たボーマンが、何か落としたのかと声をかける。
 すると、聞き覚えのない発音の言葉が出るほど戸惑った様子で、頭を抱えだしてしまった。
 不安げな顔を隠そうともしない様子からして、よほど大切な物を落としたのだろう。
 そこまでは察しがつくが、何を落としたのかは何故か言わない。
 急いで店に戻って、その床を見回している。
 何も言わないどころか、ボーマンが話しかけても、奇妙に口をもぞつかせるだけだ。
 普段ならばうるさいくらいで、ボーマンが話しかければ目を輝かせるというのに、だ。
 店員の尋ねる声まで素通りして、必死に見回すクロードの姿は、絶望的に泣きそうなまでにも見えた。
 背中をたたき、落ち着け、何を落としたのか教えろ、と囁けば呟きが返ってくる。
 言っていることがわからない。
 小さな声だったから、ではない。はっきりと聞き取れた。だが、意味が分からない。
 パニックに陥っている人間は幾人も見た事がある。実際、青ざめているクロードはパニックに近い状態なのだろう。
 だが、言語が崩壊するほどのパニック状態でないことも、ボーマンには分かってしまった。
 こいつは正常な人間。先ほど話していたときと同じままだ。
 それでも今は、どこかズレた発音とニュアンスの言葉を使う。お国ことばにしては、クロスやエルリアの方言とも違う。
 出身地だと自称するアーリアの古い言葉でもないことは、言語学者の友人からの知識で知っていた。
 となれば、突然舌が回らない奇病にでもかかったのか、と思案を巡らしていると、どうやら探し物は商品棚の陰で見つかったようだ。
 這いつくばったあとに立ち上がったクロードは、探し物だった奇妙な板を胸に抱えて、ため息を吐いた。
 複雑そうに微笑んで、大丈夫ですよ、すみません吃驚してて、と告げる。
 今度は分かった。いつものクロードだ。悔しいが、ほっとさせられる。
 しかし、驚きであれほど人の言葉が変わるときは、もう少し瞳孔が開いているものだ。
 不思議に思って質問を重ねようとすると、クロードは図書館に行ってきますと告げて走り去った。
 まるで意を決したかのような毅然とした物言いに、ボーマンは唖然としてしまう。
 さっきまで店では、今日も可愛いだの、せめて一緒に風呂入りたいだの、相も変わらず頭のおかしいことを言っていたのに、一体どうしたのか。
 正気に戻ってくれたのならば歓迎したいところだが、気になることをそのままにしておけない性格の彼は、クロードの後を追った。


 そろそろ閉館時間の直前、人は少ない。図書館のどこにいるかと思えば、言語学のコーナーだ。
 幾つか開いて中を見ているが、どれもお目当てではないようで、本棚に戻す。
 勉強が嫌いだ苦手だと言っていたクロードにしては感心な光景だが、あまりにも唐突な意欲は気味が悪い。
 さきほどの変な喋り方との関係あることは、間違いない。
 確か、なんて言っていたか。一つだけ、唇の動きを思い出して、音に出さず呟く。
 アイワン、チュノー?ワッユセー? 確かこれだ。
 男の唇なんてろくに見ている筈がないのに、なんとなく覚えていた。
 いつも奇妙な唇の動きをするクロードの癖に、珍しく発声した音と一致していたからだ。
 背中を向けて集中する相手には、どうも悪戯心が湧く。足音を忍ばせて近寄り、さきほどの言葉らしき言葉を背後から呟いた。
 クロードは、こちらが驚くほど勢いよく振り返った。
 青い瞳を白黒させるほどの動揺と、赤面。
 一体、何を言ったのか。あれは意味がある言葉だったのか。
 クロードはそのまま何か新しく閃いたように、ボーマンの腕をすり抜け、小走りで別のコーナーを探しだした。
 見つけたらしい方向は、詩集。小学生向けコーナーだ。レナじゃあるまい、クロードの興味があるとは思えない。
 そこから、ボーマンが追い着くより前に一冊取り出して早々に決めたらしい。
 タイトルを見せないように、ジャケットの内側に隠すようにしながら早足で、貸し出し受付へ向かう。
 何借りたのかとちょっかいは出すが、受付でどうせ分かるとも思っていた。
 身体で覆って隠すそぶりはしていたが、受け取った司書が記帳をする隙に、ちらりと背伸び、覗き込む。
 【愛の言葉】
 何を考えているのか分からない。
 相変わらず、控えめに言って頭がおかしい。


 昨日のクロードは流石に頭がおかしかった。いつもおかしいが、特別に変だった。奇妙な喋り方も含めて。
 奇病となれば、やはり面倒見てやるべきなのかとボーマンは唸ってしまう。
 早朝、自宅の植木鉢に水をやっていると、クロードが近くの橋に佇んでいるのが屋上から見下ろせた。
 しなやかな金髪を風に任せて、本へ目を通しているようだ。昨日借りていた本だろう。
 愛の言葉。何を考えているのか分からない。
 今までだってクロードは愛の言葉を、散々ボーマンに降り注いでいた。
 冗談かと思うようなことから、真剣すぎて冗談だと思いたいようなことまで。小雨も豪雨も霧雨も台風も。
 ロマンチックな性分は卑怯なもので、頭のおかしさを伝染させられそうになることさえ、あった。
 だから、わざわざ本を借りてくる必要なんかないはずだ。
 クロード自身の言葉で口説いてこればいい、なんて考えたところでボーマンはかぶりを振った。
 口説かれたいわけではないはずだ。
 丁度、ジョウロの音がやむ。植木鉢の皿からも溢れ漏れた水が、サンダルの爪先を濡らした。


 朝飯を摂ってから自宅を出ると、珍しくクロードが家の前をうろついていない。
 この街で泊まると、宿で待てばいいのに犬のように待っているのに、今日はいない。
 尻尾を振るのが見えるかのような、満面の笑顔を見せるはずなのに。橋からも姿を消している。
 寂しいわけでは決してないが、そのまま図書館の方を見やると、赤いバンダナの金髪頭が丁度出て来るところだった。
 探していたと悟られたら、どんな調子に乗られるか。つとめて平然に、他の仲間たちがいる宿へ足を向ける。
 昨晩の本を返却したのだろう。愛の言葉。
 気恥ずかしい言葉が、昨晩からずっと頭を巡る。しかし反面、今日のクロードがしそうなことは予想がつきやすい。
 何故そんな思い付きをしたのかは分からないが、躱すのはたやすいだろう。
 ゆっくり歩きたい気分だからゆっくり歩いていると、クロードの方はボーマンを見つけてから走ってきたようだ。
 息を切らせて、ボーマンの名前を呼んでくる。やはり尻尾が見えそうだ。
 ボーマンさんおはようございます、といつも通りな台詞でも世界はバラ色らしい。
 そして、昨日とはまた違う本を脇に抱えていた。今度は何の本だ。二巻だろうか。
 興味ないふりで隙を狙って背表紙を確認すれば、児童文学のマークが見えた。


 意外なことに、愛の言葉は実践されないままその日を終えた。
 今日はクロードの言葉数が少ないな、と違和感だけはあった。
 だが何故かクロードは自身の腰をぽんと叩いてから普段通りになるのが、特に違和感だった。
 普段通り、とするには足りない言葉があったのだ。
 だが、気にしてしまうのはまるで『それ』が聞きたいかのようで、ボーマンは自分の頭を殴りたくなる。
 頭のおかしいのがうつっているとしか思えない。
 クロードが何を考えているのか、一度でも分かった試しがあっただろうか、と反芻するほどに。


 目的地の筈の前線基地にも赴かず、なぜかマーズの穏やかな風の中を散歩する。
 長老の書庫に足を運ぶクロードを見かけたが、今日に限らず、あれから殆ど本を読んでいるようだった。
 オペラやエルネストともよく話す反面、ボーマンに話しかけてくることは先日までより減っているような気がした。
 船上でも街の中でも移動の道中でも、避けられているわけではなく、顔を合わせるとやはり犬になる。
 味噌汁でも飲むか、とぐるぐると宛もなく歩き回る自身に嫌気がさしてきた頃、ようやくクロードはボーマンに声をかけてきた。
 待っていたわけではないから、待っていなかったぞ、という顔をしておくのが、ボーマンにとっての抵抗でもあった。
 それでも構わないようで、クロードは大きく腕を広げたまま近寄ってくる。
 こんなところでハグするのか、と身構えると、一歩だけ距離を置いてきた。
 顔を見れば、青い瞳が固まっていた。こちらを一心に見つめて、心まで届けようとしているかのように。
 緊張している。そわついた指。僅かな発汗と共に、口を開く。
「あ、い、して、ますっ」
 何を言うかと思えば、また意味の分からないことを言う。
 ボーマンは咄嗟に何も言い返すことができないが、それは照れているせいではない、とボーマン自身は思っていた。
 別に『それ』を聞きたいわけではなかったが、今日の言葉は妙に妙な、実感が込められているようだった。
「毎度飽きずに同じこと言いやがって」
 いつもと同じ、ふざけた言葉だ。やはり何も変わらない。
 そんなのは、何度も聞いたことのある台詞だ。
 単純で、明快で、馬鹿らしくて、聞き流し続けていた言葉。平然と躱せる、愛の言葉。
 何故か今日は緊張が伝播してくる。
 ようやく呼吸ができた、喩えるならそんな程度で嬉しそうに綻ぶクロードの顔。
 ボーマンはそこで気づく。違う、いつもと違っていた。今日は唇と音が合っていた。僅かなズレもなく、まともな言葉で。
 最近、徐々に、突然。『それ』がボーマンの奥に近づいてくる錯覚がした。
 その唇の端を親指の腹でひっぱり頬を捏ねても、クロードの喜びは崩れそうにない。
「通じたんですね」
「通じてねーよ!」
 やっぱり一緒だ。言葉の意味は分かるが、その言葉を使う意味は分からないままにしておきたい。
「よし。これで一緒に入れますね、お風呂」
「入らねーから!」
 鸚鵡返しの否定は動揺の印だ。クロードは楽しそうに笑う。笑い方だけは元から同じままだけれど、見破られている気がした。
 慣れた言葉に胸をざわつかせる理由なんか、今のボーマンが考えられるのは、ひとつしかない。
 緑の匂いが満ちた心地良い風が、風呂上りのように火照った二人の頬を撫でる。

150726

あ~ホモはいいよな~!と思ったらWEB拍手押してくれると元気になるのでまたなんか描きます


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