月の白い光が差し込む。
昨晩は早く眠りすぎたせいか、クロードは夜明け前に目覚めてしまった。一室に全員そろった仲間たちは、疲れきって寝静まっている。
全員、じゃない。一人だけいない。
リンガの宿に泊まるとなれば、リンガに妻を残している男が、家に帰るのは必然だろう。
また明日な、とみなに向けて手を振り、裾や肘がだいぶ汚れた白衣を翻し、我が家へと足取り軽く帰るその後ろ姿。
なんの変哲もない、平穏な光景。目を奪われるほどでもないはずの。記憶を呼び覚ますこともないはずの。脳裏に焼き付くわけがないはずの。
「ニーネさんも喜ぶだろうな」
誰が言ったんだろうか。仲間の声が、ぼんやりと耳に残る。きっとそうだろう。今頃、きっと。旅の話も、その他のことも。
夫婦の、日常を過ごす自然な仲睦まじさは、以前からクロードも目の当たりにしている。
幸せな光景だ。幸せな家庭だ。
だが、思い起こす旅に不思議とクロードの身体には、血に僅かな空気を差し込まれたような感覚がしていた。
僅かなはずの空気が膨らみ、内側から切られてしまうような、錯覚。
ベッドに腰掛けたまま思い起こすとやはり、眠る前にあったその胸の雑音が蘇ってきた。理由がわからない。
羨ましい、には説明がつかない。彼の両親が珍しく揃っているときは、クロードがときには寂しくなるほど、仲が良かった。
理由が分からないまま、その嫌な血の巡りから逃れるために、一足先に眠っていた。
まだ眠る時間はあるが、また眠れそうにもない。
戦闘を続けた疲弊は抜けているようだが、そちらはまだ治らない。
変な夢を見たせいかもしれない。イメージだけが身体に纏わりつくが、内容は覚えていない、変な夢。
窓から覗くさみしそうな夜の空が、今の自身によく似合う気がして、クロードは宿から静かに出た。
北にある大学校舎から光が見える。研究所があるせいか、まだ誰かがいるのだろう。
それならと暇つぶしに図書館を目的に足を運んでみるが、流石にそちらは閉まっているようで暗い。
大学前の橋の上で佇むと、川を伝って冷たい風が、頬を撫でて髪を揺らがせた。
視線をどうしても引き寄せられる。
いや、逆に、どうしてわざわざ、見ないふりをしてここまで歩いてきたのか。
見ればいい。普通に。なぜだろう。仲間の家。見たっていい。
白い壁の薬局は、緑に包まれて陰の中に静まっていたが、二階の明かりは灯っていた。
カーテンの向こう、彼らはリビングで何の話をしているのだろう。
きっと寄り添いあって、手を重ねて。あたたかい光は、もうすぐ三階の窓に移るのだろう。
そうなる前に訪ねていったら、驚かれるだろうか。ここから数十歩、階段を登って、ドアをノックして、声をかける。
いや、邪魔をするだけだ。二人の大切な時間を。旅に出ているから、貴重になった時間を。
そしてまた、そうだこれは。気持ち悪くなる。それだ。
気分の悪さに、吐きそうになる。喉から血が出そうになる。眩暈に似た悔しさ。
ムカムカとする。頭でも心でもない、だが、果たして胃だろうか。自分自身に苛立っているような、むかつき。
目の前の薬屋に、どうにかしてほしいと薬を貰いに行ったら、驚かれるだろうか。何か薬をくれるだろうか。
黒い川に映る自身の顔色は判別がつかず、ただ瞳が真っ黒に見えた。死んでいるような顔。
邪魔をするだけだ。
宿に戻ろう。ひんやりとした風も、孤独な夜空も、気分を心地よくはさせなかったけれど、『仲間』を困らせたくはなかった。
帰ってもう一度眠れば、朝が来れば、きっと直る。また明日な、と彼の声が蘇る。
明日、また、会える。
俯いたまま目を閉じ、口角を持ち上げ、無理に笑う。水面に映る顔は見えないが、きっと笑っている。
薬なんかなくても、これは飲み込んでいよう。いつも通りの顔で、会おう。
決意をかためて顔を上げると、男の人影が目に入った。
誰だと思うまでもなく、彼だ。白衣は着ていない。薬局から出て来て、こちらに向かって歩いてくるのは、彼しかいない。
目が合った気がした。彼は、よお、とばかりに腕を軽く上げた。
なぜか逃げ出そうと一歩だけ動いた途端、クロードの身体はそこで硬直した。
逃げる必要も、固まる必要も、どこにもない。その間に、のんびりとした足取りで彼は近付いてきた。
ボーマンの顔が、傍の明かりに照らされて見える。
この暗い中でも充分、明るい印象がする笑顔。機嫌の良さそうな顔。さきほど川に映した、クロードのそれとはまったく大違いの表情。
「やっぱりクロードか」
夜に似合う、囁くような声が耳をくすぐって響く。
特に心配するでもなく、世間話の軽くて日常的な声音に、身体のどこかが温もりに蕩ける。
「ニーネが、クロードが橋にいるって言うから見に来てやったぜ。眠れねぇのか?」
「ぃえ」
変な声が出て、顔を逸らす。
「いえ、早く寝すぎてしまったから。変な時間に起きちゃって……」
「そっか。今日もお疲れさん」
照れくさい。ここにいた理由も言わないまま、顔を見られないまま答える。
隣に立つボーマンの熱がひどく心地良い。
夜の橋の上で語らうのは、このエクスペルに来たばかりのときにもあったが、そのときとは違う。
ここには何もないはずなのに、あっという間に何もかもが満たされていく。
さきほどまでの吐き気が、全て消えてしまったかといえば、そうではない。
それも確かに残っているまま、頬に触れる風が心地よくなっている。
「気持ちのいい夜だな」
ぽつりとボーマンが呟く。見上げれば確かに、寂しげに思えたはずの空が今は、広々として雄大だった。星が、眩く見える。
明るく、美しい、未知の星座が瞬く、エクスペルの夜空。
「ハーブティー淹れてやるよ」
ボーマンは、指先だけで手招いて家の方に歩いていく。
まるで時間が動き出したようだった。
二人で深遠なこの空を見上げたのは数秒のことだ。その数秒が、いつまでも止まっていると、まさか錯覚していたのか。
顔が赤くなりそうだが、これ以上はもうなれる気がしない。とっくにもう。
「よく眠れるやつ」
こいよ、と目線だけでクロードに告げる。特別に優しいわけでもなく、いつもの調子の言葉。
せっかくの夜に邪魔じゃないか、と考える間もなく、クロードの足はボーマンの背を追っていた。
もうすでに、眠れそうにない程に火照っているのが、風の冷たさでわかる。暗がりのうちに、落ち着いてくれるだろうか。
それでも胸のもやつきが消えたわけではなく、更にひどくなる予感さえしたが、それでも追うしかなかった。
薬屋から薬を求めるように医者の処方を求めるように、クロードは誘われるまま夜の仄かな光を求めた。
150610 |