※イリアとクロードの会話
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ネクタイとベストだなんて子どもっぽいって、嫌っていたのにね。
母にそんなことを言われ、気持ちが変わったのは誰のお陰か、すぐに分かった。
幼少期にはよくそんな服を着せられていたけれど、中学生にもなれば恥ずかしいもんなんだ。
だけど、今は大人だから普通だ、もう誰からも子どもだと思われないし、平気だ。
言い訳を慌てて、しなくてもいいのにしてしまった。
本来なら、ネクタイとベストなんて、大人っぽい姿だったのに、子どもの頃にはわからなかった。
よく似合うじゃない、という言葉が、あの頃に拒否したときのようにくすぐったかったけれど、今の理由は変わっている。
母方の祖母の好みである少し懐古趣味な恰好で、地球に帰還した挨拶をしてきた。
その帰り、そんな服の雰囲気に似た、洒落た喫茶店に入り、同行の母と少し話をした。
聞かせて、と願われたのだ。『冒険』の話を、息子の成長譚を。
以前よりも少し年老いて見えた母は、若い娘のように魅力的な笑顔を見せる。
だけどそれが、さびしさを隠しているようにも見えた。
当然だ。彼女の愛する夫は、星の彼方に消えてしまった。
エクスペル復活という時間の逆流が起きたのだから、奇跡の道連れがないだろうかと探した。
しかし、カルナスの信号は未だに捉えられないままだ。未だに、だなんて未練がましいけれど。
せめて息子がこうして無事に帰って来たとはいえ、母の胸の痛みは想像しきれない。
まだ若いし、モテる現場も見た。いずれ再婚もできるだろうが、それだけの問題ではない。
母と会って話をしたら、落ち着いた頃を見計らって、アルクラ星系第4惑星に再び『帰る』ことを告げる気だった。
エルリアタワーで行った決別は、その場の勢いだけではなく、心の底からの真実だったのだから。
しかし、母の様子を目の当たりにすれば、言葉や態度で縋られることは一切なくとも、別れを口にできない。
彼女の、自分とそっくりな青い瞳が、沈んだ色でこちらを鏡映しにしていた。
母の性格を考えれば、息子の旅立ちを、素直に応援してくれるに違いないことは分かっているけれど。
このまま地球に戻ることだって、無理でもないんじゃないか、そんなことさえ過ぎった。
エクスペルでの冒険を母に話す。エクスペル、という現地の名称を母もすぐに受け入れてくれた。
身勝手な行動で転送され、少女に出会い、少女の出生の地へ辿り着き、宇宙の崩壊を防いだ物語。
宇宙の崩壊だなんて、他の人には嘲笑されるだろう事実も、母たちは経験している。
だからこそ父は英雄になったのだから。
とはいえこちらは、仲間以外の誰も知らない救世だから、絵空事だと思われるかもしれない。
ただ、誤魔化しているわけではない、実体験なのだということは、信じてほしかった。
たとえば第三者が見たり脳裏に描いたものではなく、その場にいたからこその言葉を重ねた。
その強い意気込みを余所に、母はあっさりと信じてくれた。
肯定のための肯定ではない、凄まじく確信に満ちたエネルギーを、母から感じた。
最初の頃の部分は、冒険時に出版した著書で、似た内容を一度まとめていたから話しやすかった。
しかし十賢者による父の死は勿論、エナジーネーデの顛末で、話に閊えることもあった。
父の死の部分も、静かにじっと、聴いていた。涙をこぼして動揺するようなこともなかった。
あとでひとりで泣くのかもしれない。
想像してしまい、今自分の口で語った仲間たちの輪郭が、ほんの僅かにぼやけた気がした。
二杯目の、あたたかい紅茶の湯気がそうさせたのだろうか。
仲間たちのことも詳しく話した。全員のことを。
出会った順に、怒ったことも、自分の失敗も、言えるうちで面白がってくれそうなものは、殆ど全て。
明るくて、楽しくて、たとえこれから死ぬとしても一緒にいたいと本気で思えた、大切な奴らのことを話した。
彼らと彼女らのおかげで、自身の居場所が見つかった。
こんなことがあったんだ、そうだあんなこともあった、思い出すことは今も真新しい。
街であったこと、闘いの中であったこと、遺跡の中であったこと、そして、冒険後にしていたこと。
普通に話していたつもりだった。苦労も楽しさも一緒に、ごく普通に。
「好きなのねぇ、その人のこと」
母の言葉に一瞬、身体の内側が全て機能を停止したかと思った。いいや、心臓は動いていた。
今、エル大陸で復興の手伝いをしている。さっき話した、ディルウィップやメトークスの医者と一緒に。
どうしてわかったんだろう。彼の話題を出しすぎていたのだろうか。
傍にいた時間の分、面白そうなことに顔を突っ込む好奇心旺盛な彼だから、話題も豊富だった。
そんな反芻をしている間に、母はティーポットに茶葉を入れ、落ち着いた声で言葉を続ける。
「好きなんでしょう? ボーマンさん。だって、特別に嬉しそうだもの」
落ち着いた、とてもとても、とても嬉しそうな音色で、母は追い打ちをかけた。
特別に好きな人がいる、若い女性の顔が一瞬ちらつく。フォトグラフで見た過去の姿。
「あのね。地球に戻ってきたとき、あなたの目は沈んでいたのよ」
「そんな、まさか」
否定はしたが、指摘に思い当るところは充分あった。
あのとき、どうやって地球を離れようかと考えていたところに、母の瞳を見たのだ。
「せっかくママに会えたのに、なんて息子かしらって思ったけれど。
あれは、好きな人と離ればなれになってしまった顔だって、気づいたの」
母の目に映っていた青は、自分の瞳の色だったというのか。
彼女の瞳は、今、店のランプの色よりも華やかに染まっている。言葉が、返せなかった。
「最初に出てきたレナちゃんって子がそうなのかな、と思って聞いていたんだけど……違っていたみたいだから」
「え。だって、」
もちろんちゃんと性別だって話した。疑われないように。同性のカップルは今や地球で多くても。
「その反応は、正解なのね。驚いたわ」
あまり、というよりも殆ど驚いていない顔で、こちらの空になったカップを引き寄せて紅茶を注ぎ、カバーを被せた。
「なんだよ……そういうことは隠しておきたかったんだけどな……」
「その人のために、また『行く』の?」
母はなぜか、話を早めようとしているようにも思えた。そうする理由は、彼には思い当らない。
だからただ単純に、問いに頷く。
「エクスペルに『帰る』つもりだよ」
「そう」
こちらから切り出すはずの決意を促されて、自然に告げられた。
だが、唇を過ぎてから、あまりに厳しい言葉だったのではないかと思えてくる。
「こっちにも、できればたまに『帰って』くるからさ」
「あら、孝行息子。人柄が見たいし、彼も連れてきてくれるんでしょ?
そっちは知らないけれど、地球なら結婚も疑似出産もできるんだから」
ひとつ。
母に、言っていなかったことがある。
わざと言わなかったのだろう。その件は思い出していたが、エル大陸で過ごすときのように、飛ばして話していた。
「だめなんだ。そういうの、じゃないんだ。僕たちは、恋人じゃないし、僕が想っているだけなんだ」
「ああ……『君は大切な仲間だ』、ね」
過去に父から告げられた言葉だろうか。両親は元々、上司と部下の関係で、更には年の差もあった。
ボーマンもこちらに対して、『大切な仲間』という気持ちの方が圧倒的に強いだろう。
多少は、恋愛じみたやり取りをすることもあるが、あれらは、冗句みたいなものだろう。
「うん、それもある。それもあるだろうけれど。
妻帯者なんだ。ボーマンさんは、奥さんのことを、すごく愛しているんだ」
母の動きが止まった。
特別に何か動いていたわけではないのに、テーブル越しでもはっきりと、筋肉や瞳孔が硬直していた。
それから、閉ざされた扉が開くときのように、長いため息をつく。
確かに、ショックだろう。
同性というだけでも驚く人も未だにいるのに、叶わない恋のために故郷を離れると息子が言い出したら。
「そんな変なところまで遺伝子に刻まれているかどうか、科学的に知りたいところね」
「え、なに?」
しかし母の言葉は、方向性が違っていた。
彼女は声を潜めて、ケラケラとほんの少し笑う。
「他に愛する人がいる人間を愛してしまう遺伝子、よ。人間の好みは、科学反応でしょう?
それなら、そういう妙な遺伝子もあるのかもしれないわ」
科学反応をロマンチックに考える母は、恋愛における脳の働きをとても肯定的に受け止めている。
「話したことがある気もするけれど、ロニキスは私と再婚なのよ。
出会った当時のロニキスも、亡くなった奥様のことを、とても深く愛していらっしゃったの」
当時のことを思い出したのか、父への言葉遣いが自然と敬語になった。
そういえば、そんな話を、幼いころ僅かに聞いた気がする。
父親が誰か別の女性と一緒だったという、過去の事実。
幼い頭では、もしかしたら自分が産まれなかったかもしれない、とまで考えて怖くなった記憶が蘇った。
「そうだわ。クロードったら、その話で泣いちゃったんだわ」
そんなことは覚えていない。が、成長してからきちんと話された記憶がないのは、そういう理由なのだろう。
「分かっているかしら。一途な遺伝子よ、これは。覚悟なさい。
諦めようとしても心は離れられないし、脳をどれだけ他の処理に回しても、……残り続ける」
それはなんの補足や説明がなくとも、母の眼差しから声音から存在の全てが、その全てを語っていた。
母と父の話だと思うとなんだか尻込みしてしまう部分もあったが、信じられた。
自身が感じつつあったことと、とてもよく似ている、まさにその通りの気持ち。
「だから、お母さんは止めない。止められないから。私は母に止められたけれど、それでも燃え上がった」
確か結婚は24才。その数年前に出会っていたのだろう。つまりおそらく、こちらとほぼ同じ年頃。
「でも、母さんの場合と状況が全然違うよ。ニーネさんは生きているし」
「結果論なら私は幸福。
だけれど当時は、一緒だったのよ。たとえそこにいなくても、あの人が愛しているのは奥様だった」
確かに、エクスペルが崩壊したときにも、ボーマンが愛しているのはニーネだ。
そのときが一番、想いを伝えることも何もできなかった。
だけれど、諦めることもできずにいた。相手の幸せだけを望もうと、闘いだけに専念して忘れることも、できなかった。
どんな状況でも、あの人が愛しているのは奥様だった、のに。
「……好きな人の幸せを願っても、好きなのを、やめられなかったんだ……」
好きな人をずっとずっと何があっても好き。
その純粋な一途さが、どれだけ黒ずんだ強欲なのかを実感していたから、母の顔を見ることが出来なかった。
そうだ。もちろん、自分自身もボーマンの家庭を壊す気は毛頭ない。だがこの想いは、そこに辿り着くことがゴール。
母の気持ちを読み取って呟いただけのはずの舌が、痺れていた。
そして、その一途な恋の結果に、クロードは産まれた。望まれて、産まれて、愛されている。
結果論なら、幸福だ。
だが、しかし絶対に、幸運ではない。どこかから運ばれてきた幸せではない。
「クロードも、分かっているみたいね。他人から奪う『チャンス』を求めているわけじゃないんでしょう?」
「当たり前だろ。一緒にはいるけど、別に、それだけの理由じゃないんだ」
母が羨ましくないと言えば、嘘になる。だがそれを羨ましいだなんて、絶対に望みたくない。
もしそんなふうに思う人間を、ボーマンが好きになるとも思えない。
たぶん黒ずんでいる心でも、己の指先もなにも見えないような、冷たい闇ではないのだから。
「だから、そんな恋はやめなさい、って言うのはすごく難しいわ。だから、言わせて」
母は、懐かしむようにはっきりと告げた。
「そんな恋はやめなさい」
止められないから止めないと言ったはずの母は、こちらをその青い瞳で止めようとする。
昔、自身の母親にそう言われたのだろうその言葉を、一語一語区切って発音した。本当に『難しい』言葉のように。
だから、クロードはその言葉を受け止めた。
「もう無理だよ、母さん」
心から、受け止めた。
そうだ、もう。無理なんだ。理屈や理論なんて、とっくに知っている。
これが叶うのも無理なことなのに、引き下がることも、無理だ。
思い描く愛しい人の輪郭は、こんなにも強く肺を抑えつけられても、いまもまだ曇らない。
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