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 キャスケット帽の男が、膨らんでいる鼻を更に膨らませて、意気揚々と近寄ってきた。
 セントラルシティの広場を一人でうろついていたクロードは、戸惑う間もなく肩をつかまれる。
「君だね! ほんとうに丸い耳だ! 探していたんだ。見つかってよかった。
 ぜひぼくの映画を、見てくれたまえよ!」
「ええ?」
 芝居がかった口調だが、妙に聞き取りにくい声でまくしたてられた。
 やたらと馴れ馴れしいが、彼とは初対面だ。十代後半にも見えるが、三十路にも見える男。
「君は勇者だろう。あのー、ほら、新聞で見た。光の勇者という奴だろう!」
 ぼくは映画を作っていてね。ああいや、有名な人間にはなれなかったんだが、趣味でね。
 大学時代からあたためてきたものが、ついに劇場で公開されることになったんだ。ああ、劇場は劇場だ。
「ぼくは、ぜひ、ぼくの映画を光の勇者に見てもらいたいんだ。いいだろう?
 心に残るシーンを胸に幾つも刻んでもらってから、この地を去って欲しいんだ。
 時間はそんなに取らせない、時間は短い映画なんだ。密度は高いんだが、ほんの少しなんだ!」
 純粋な勢いと熱意に気圧される。見ないと言ってここを去れば、しぶとい彼の姿は容易に浮かぶ。
「わ、わかりました。見ます。見ますから、その『勇者』って呼ぶのは……」
「よかった! これで夜が来ても、安心して眠れるよ!」
 暇を持て余していたクロードが承諾をすると、更に喜んでいる。
 奇妙な言い回しは文化人らしいとしても、不思議なほどに、切実で無邪気だった。
「でも、僕が見て、何かいいことってあるんですか?」
「いいこと! いいことじゃないか! だって、君たちはぼくの世界とは違うだろう。
 ぼくの青春すべてを注いだ傑作が、いずれ宇宙の藻屑になってしまうだなんて、ぼくには耐えられないよ!」
 彼の喋る姿を見ていてるとなんとなく、あまり期待はできないな、とクロードは率直に思った。
 先導する後を追い、こんな道があったのかというビルの隙間を通っていくと、小さく古ぼけた扉に辿り着いた。
 ぎこちない恭しさで彼が扉を開くと、上映直前らしい暗闇の狭い部屋。
 錆びついた匂いのするそこには、ひとり先客がいた。
 ああ。やはり客はいないのだ、と思いながら近寄ると、ネーディアンではなかった。
 見慣れた後ろ姿は気だるそうな気配で、ざらざらとした赤い椅子に座っている。
「……ボーマンさん?」
 間が悪いというか。
 そこにいたのか。というか。
 ボーマンはこちらに気づいて、ふい、と手だけ振った。
 ついさっき喧嘩したことは、さすがにお互い忘れていない。座席の間を一つ空けて、クロードも座る。
 いつものような軽口は、出なかった。
 刺々しい空気というより、空気がうねるような感じだ。
 あれは喧嘩というより、付き合っている男女ならば痴話喧嘩で済んだような件だった。
 ほんの少しの意地悪心からボーマンは、クロードにまるで口づけをするような仕草でからかった。
 未遂だ。笑い飛ばせば丸く収まったのだが、クロードの恋慕を知った上での行為は、ひどく若者を怒らせた。
 諦めた矢先の思わせぶりな行為は、侮辱だった。妻を想ってほしいという気持ちからの、失望でもあった。
 それでも内心喜びかけた自身への苛立ちから、きつい言葉が漏れてしまい、結果的には喧嘩をしていた。
 ボーマンの寂しさを、受け入れることはできなかったのだ。
 つい、十数分前のことだ。
 そのまま街中で別れたのに、同じ男に声をかけられて結局、同じ場所にいる。
「さあ、はじまるよ、はじまりますよ!」
 男の声が騒ぎ出した。開幕の音が鳴る。男は背後に座っているようで、ひとり拍手する音が響いた。
 ぱん、ぱん、ぱん、と奇妙な拍子の。


「恋愛映画だって聞いてたんだがな」
 映画のあらすじを一言で表すなら、『平凡』だった。
 恋愛映画であることは間違いない。男と女が出会い、喧嘩をし、仲直りをする展開だ。
 初心者らしい勢いも、巧みな山場もなく、印象をいうなら『印象に残らない』ということ。
 役者にしても美男美女というわけでも、達者なわけでもないが、下手なわけでもなく、ひっかからなかった。
 ネーデの映画は、ホテルのテレビ放送で観た程度で殆ど知らない筈だから、と甘く見ていた。
 どれだと照合はできないのに、どこかで見たようなシーンが多く、とにかく、どう考えても、平凡だった。
 男の感想を求めるような期待の眼差しを避けて、二人は早々に劇場を後にした。
 一言だけ、きっと覚えていてください、と背後から声をかけられたけれど、おそらく忘れてしまうだろう。
 主演女優の顔でさえ、入り口のドアノブに手を掛けたころには既におぼろげなのだ。
 それらはボーマンも同意見のようで、並んで歩きながら、ぽつりとつぶやいた。
「キスで仲直りするとか、安直だよな」
「ですよねぇ」
 そういえばそんなシーンもあったかな、と言われて思い出す。
 そうだ、キスで喜ぶ二人がいた。キスで喧嘩したときとは大違いだ。
 あんなにも平凡だったものは、意外なことに、好印象を抱いて思い出せる。
 すぐに忘れてしまうだろうと思っていたのに。そう考えれば、不思議な感覚のある映画かもしれない。
 それよりも強い効果としては、観た同士の意見が同調することだろう。
「キャスケット帽の男がちらっと映ったのは、ちょっと面白かったですけれどね」
 それはただ見知った顔が出ると面白い、というだけだ。
 主役たちが喧嘩した直後だっただろうか。彼が無意味に、主役の前を一瞬覆うように現れた。
 キャスケット帽の男が、膨らんでいる鼻を更に膨らませて、意気揚々と近寄ってきた。
「自主製作ならそれはそれで、味があるもんだけどなぁ。俺のときはそうだった」
 祭りのとき、仲間内で芝居をしたことがあるんだよ、と大学時代のことを短く語る。人を笑わせた青春時代。
 当時から付き合っていたニーネにも評判だった、と。そこまで言って、彼の口は止まった。
「……僕も見たかったな」
 彼の過去を見たかった。そのときにいたからといって、勝てるわけがなかったとしても。
 思い出話をされると、いつもそう思う。いつもそう思うから、声になって言葉になっていた。
 彼の妻が今この世にいないことさえ、またしても嫉妬していた。
 しかし、今度はさきほどのような焦燥を感じない。
「そうだ。俺達もやるか? 芝居。ほれ、男女そろってるしよ。書き手もいるだろ。できるんじゃあないか?」
「まさか」
 自分が芝居をするだなんて思いもしない。軍学校時代のトランペットを吹く隊列だけで、演技は充分だった。
 挙句に、先ほどのような映画になってしまったら、という恐怖もある。
 しかしボーマンは逆に、あれで火がついているらしい。細い瞳が楽しそうに輝いていた。
「いいや、やろうぜ。終わったらさ、その辺の広場でも借りてよ」
 ビルの隙間からはまだ出ていない暗がりだったが、指さす先の広場のタイルは、光を浴びている。
 ネーディアンたちがいつもどおりの生活をしている光景。
 暗い場所から見ていると、まるで美しい舞台だった。
「やるんだったら、ボーマンさんが責任者ですからね。監督かな?」
「いいぜ。じゃあクロードを主役にしてやるよ」
「えええ、嫌ですよ! なんでですか!」
 裏方でいいですよ、僕そういうの得意ですよ。と別に得意でもないのに言い返す。
 それなのに、返ってくるのは上の空に近い言葉だった。
「お前が幸せになるハナシにしてやるからさ」
「別に。僕は」
 すん、と胸の奥に棘のような空気が産まれた。
 さっきの映画の話だ。なぜ今更、思い出すのだろう。女優がそんなことを、相手役に言っていた気がする。
 そんな台詞を、何故平凡だと、つまらないと決めつけて、投げ捨てていたのだろう。
 平凡と言っても、間違いではない。だけど今こうして心打たれるのは、何故だろう。
 それでもそのシーン、その展開、魅力的な女優の顔が浮かびそうで、浮かばない。
 思い出す。
 そうだ、丁度このくらいの薄い光がさしこむ裏路地で、彼らはキスをして、仲直りをしていた。
 滑稽なまでに美しいシーンだったのではないか、と今更思い出す。
 今のこの場所は、偶然にもそっくりだ。いいや待て。男に連れられて来たときは、こんな道だっただろうか。
 こんな、映画で見たような道だっただろうか。
 のどが痛くなる。何を見ていて、何を見たのか、眩暈が起きそうだった。
「僕は」
 何を言いかけているのか。言わなくてはならないこと。映画の次の台詞だろうか。思い出せない。
 映画の中の彼らは、仲直りしてそのあと、どうなったのだろうか。思い出せない。
 息を吐く。それからもう一度、息を吐く。
 微かな声で囁く、余力を残す。余計なことを一つも言わないように。
「……僕達も、仲直りはできたんだ」
 だけど安直で平凡なあのキスが、とても羨ましい。
 背後にあるはずのドアは、路地の暗がりでもう見えない。
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とある男が作った『映画』は、あらすじも映像も、観た人の観た時に拠る。
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