薬の染みた匂いと共に、声が彼の傍に落ちてくる。
「何うじうじしてんだよ。クロード」
 その言葉は軽くても、蛆ついたように見えてしまうのは醜いもので、彼には鋭く感じた。
 目の前の数歩先。正直に認めるならば、今の気分に一番心地よい距離を持って、ボーマンは身軽な仕草で屈む。
 ん? と、それ以上の先をこちらに委ねるような顔を向けて。
 視線をちらりと合わせ、避けて、そしてまた合わせ、いらだつような逡巡の末に、肺がため息を願う。
「……なんだか、考えちゃって」
 ぼつり、と思っていたよりも乾いた声がこぼれた。


 それは黒い鎧の男の言葉だった。
 メタトロンと言ったか。契約の天使の名を冠する十賢者の一味が告げたのは、さざ波を立てる台詞。
 奴は武器開発の女性であるミラージュを強く撃ち、確かに許されない行為を見せつけた。
 倒れた彼女を、まるで人と思わぬような仕草で一瞥するだけの男。
『貴様らとて、数多くの命を奪ってきた』
『自らの目でしか物を見ようとしない』
 反論した。
 お前たちが悪いから、と。
 即座の反論は、感情の爆発に近かった。非道な行いに対して、頭に血が上ったことを覚えている。
 完全に、自分たちは正義だと確信していた。
 だが。
 どうだったのだろう。
 ミラージュ博士の命は取り留められ、そして次に赴く場所を指示される。
 途中で立ち寄った、雪降るあの町の大学で見た、過去の一説。唯一封印されていた歴史は、別の話を語った。
 十賢者たちに有利な歴史がないのはおかしい、というチサトの言葉を思い出す。
 それでもどちらが真実かは、時に埋もれた今では、もうわからない。信じるものを進むことしかできない。
 しかし塔を目の前にした今、『なんだか考えて』しまった。

 本当に、正義なのか?

 このエナジーネーデに来てからというものの、殆ど指示に従っていただけだった。
 場所が不慣れで道理が分からない、というのもある。この地で一番の権力者は、様々に支援をしてくれる。
 更に、己の父から聞いていたエクスペルの消滅も確定したが、希望を伝えられた。
 だからこそ、望みに向かって進むことが唯一の道であり、正義でもある幸運だった。
 あのメタトロンという男が言う言葉が、真実だとは認められない。
 破滅が正義だなんて、どう取り繕っても狂っているとしか思えない。
 逆に、味方の陣営。ナール市長。
 彼が何か隠しているそぶりは感じても、故郷で見たような腹の腐った連中とは違う。信頼できる相手だろう。
 それでも。ひっかかる、のだ。
 命を奪ってきたことは事実であり、自らの意思で動いていただろうか、と。
 もしかしたら『僕たちの正義はもしかして何か間違えているんじゃないか』と。
 はじめて動物の命を奪った幼い頃のように、胸の裏がぞわりと冷えていた。
 そのときの訴えは、ばからしいと級友に嘲笑われた。
 だが今、こうして大凡を話したところでも、ボーマンは真剣に聞き届けていてくれていた。


「知っているとは思うが。俺は、医者でな」
 突然の突拍子に近い単語だった。ごまかされるのではないかと思う間際、矢継早に続く。
「医者が命を救えることが多いのは事実だが、そのために殺した動物は山ほどいる」
 実験。
 地球のような風土を持ったエクスペルの文化で、あの時代ならば、自然だったのだろう。
 医学について詳しくは知らない。
 しかしボーマンが言いよどむ内容、目的が結果につながらなければただの理不尽な虐殺であることは、歴史の知識から想像はついた。
「あれに嫌な気持ちはあったが、ネーデの医学を見て、ハッキリと気づかされた。
 俺が命を奪ったのは、救えたことより実際多いんだろうな。救えた数は指折れても、そっちは覚えちゃいない」
「だから」
 憂鬱そうに首を振りながら、彼自身が言いにくいことを明かしてまで、言いたいことは。
「だから、奪う数よりも多く救えってことですか?」
 その決断を。理想を。
「違うね」
 ボーマンは否定した。
「いや、違うともいえないがな。そうすべきだろうとは考えるさ。
 だが、他の命を『数』で言うべきじゃねえだろ。俺はニーネが、数の『一』とは思っちゃいねえ」
 ボーマンにとって、最高の『ひとり』と呼べるだろう命の名を挙げる。
 彼の妻が今は、この世界のどこにもいない。その前提のままで、険しい顔と声で語る。
「なんつーかな。
 かっこいい正義なんて、ねぇんだよ」
 彼自身も悩むように、眉をひそめ、口元を二枚の手のひらで覆い隠す。
 それでも言葉は濁らずに、射抜くような鋭さを維持していた。
「俺は、他を『億』殺しても、救いたいものを『一』救うなら、それは正義だと思っている」
 次いで囁く小声。かっこ悪いだろ?
「クロードはそういう考え方が、嫌いだろうな」
 嫌い、だろうか。
 真白く灰色がかった頭の中で考えてみる。あまりに自己中心的な考えだ。
 それが戦争を呼んだ、それが未開惑星を滅ぼした、それが破滅の連鎖の鍵となった、地球人達の歴史。
 勝ったから正義だと笑うのは、自分達さえよければいい、という考え方。
 正義の味方が抱くには、不釣り合いな独善的思想。
 それこそが、メタトロンが指摘した罪悪ではないのか。十賢者たちを隠蔽した、惑星ネーデが隠した罪。
 だからといって、いまエナジーネーデにある、そしてエクスペルにあった……
 いいや宇宙すべての数多くの命が、彼らに罰せられる理由はない。あまりに逸脱した理論だ。
「そんなの、おかしいです。悪いもの以外を救えるのが正義です。
 ……けれど、その悪が悪じゃないかもしれない」
「ああ」
 否定がほしかったわけではない。しかし、ボーマンの率直さは、今にとっての救いはなかった。
 その通りだ。いつだって、いきなり突然、解決の道が開かれるような美しい歪みなんて、ありえない。
 まるで真実に打ちのめされそうだったからこそ、また口を開く。
「あいつらは間違っている。恨みがあるから滅ぼしてそれで、どうなるっていうんだ。
 やられたからってやり返しているだけじゃないか。
 どんな事情があっても、あいつらが間違っている行動をして、今更救ってやる必要なんかない」
 やけにのどが渇いた。
 今自分は、わざと過激に言っているのだ、と頭の隅で気づいている。
 泣くことまでは行かなくとも、ひどく顔の表面に熱が集まる。感情的になる自分が、恥ずかしかった。
「それでも、悩んじまったんだろ。『悪い』奴らの為に」
「ありえません。ここで悩むなんて、おかしいんだ。僕達は悩んでなんていられない」
「そうかね」
 言い返した筈の硬さは正当だったはずなのに、柔らかく受け流される。
「俺はお前の悩むところ、好きだぜ」
 わざとだろうか。静かに、落ち着いて、甘く告げた。
「悩むってのは、考えるってことさ。言われたとおりに進むだけじゃないってことさ。
 お前の意思で悩みだして、考えて答えを探そうとしたってことだろ」
「そんな、ことは……ないです」
 肯定された己の醜い部分を、受け入れるには躊躇いが強かった。
 そんな優しさを伴って、悩んでいる姿を評されたのは、はじめてだった。
 どこか別の人間が別の人間への言葉ではあったけれど、自身にかけられる言葉としては、はじめてだった。
「年下のクロードにリーダーを任せているのは、だからだよ」
 え、と驚きが顔に出た。
 自分がリーダーの位置にいるのは、旅の始まりがそうだったからだと思っていたのだ。
 年上であるはずのボーマンも、旅についていくというスタンスを特に変えようとしなかった。
「いろんなことを考えてるから悩むんだ。
 かといって、今のお前は悩み続けて切っ先が鈍るってわけでもない。
 メタトロンとの戦いでも、もしその場でお前が戸惑っていたら、俺達にまで動揺が響いていた」
 軍の士気。座学の用語が連鎖して浮かぶ。
 あの場でもし言葉に圧され、ミラージュのための反論もできないままなら……末路の想像は恐ろしい。
 ボーマンに気付かれてはしまったが、元々こうして独りで悩むことを選んだのは、皆に心配をかけたくなかったからだ。
「お前は進むべき時に、進めるだろ。だからクロードがリーダーなんだよ。
 まぁ、たまにうじつくってのはマイナスだがな」
 後尾を締める冗談めいた口調が、妙に持ち上げられすぎるままより、逆に安堵を寄越してくれた。
 はにかむように頬が緩む。
「ありがとうございます」
「おいおい、俺は何も解決してやってないぞ?
 お前の好きな正義はまだ見当たっていないんだ」
 そういえばそうか、とも思う。
 だが、悩んでしまった彼の位置だけは、弱さから少しだけ救われた。
 その様子が外からでもわかるのだろう。ボーマンも、先ほどよりも軽く笑い、数歩こちらに歩み寄る。
 彼は隣に腰かけた。
「絶対に俺達は世界を救えるんだから、そんなに疲れるなよ」
「なんですかその決めつけ。疲れてませんよ」
「いいや疲れてるね。ちょっと休め」
 じゃあ、そういうことにしておきます、とわざと減らず口をたたく。
 ぽんぽん、と妙に肩を見せつけてくるので、素直に頭を乗せてみた。
「俺はお前だって殺されたくねぇからな。言っとくけどよ」
「分かりましたよ、殺されません」
 そして、それが一番の殺し文句ですよ、と心の中で柔らかく苦笑した。
 今なら返してもいいだろう、と口が不思議と滑っていく。
「……もし、僕達が正義じゃなくても、僕達の望みを叶えたい。
 たとえば、ボーマンさんがまた幸せに暮らせるような、日常を取り戻すべきでしょう?」
「当たり前だ。あいつは意地でも俺のだから、理不尽な理由で奪われてたまるかよ」
 にっ、と歯を見せて笑うボーマンの顔に、つられたふりをして笑う。
「だったら、それが僕の正義になるかもしれない」
「かもしれない、かよ」
「じゃあ、僕の正義だ。どうせなら僕は」
 この流れなら、つい口にできるはずだった言葉に、一息の間がうっかりと入ってしまって。
「好きな人のために戦いたい」
 こんなもの、正しい意味にはとられなくてもいい。
 ただの決意でしかないから。

 
 きれいな正義なんか、心の中にないんだ。
 かっこいい正義じゃないと思う。
 光の勇者だなんて、そんなに大きなものになれるつもりはない。
 けれど、はっきりと『間違えたくないこと』がある。
 まなざしの向こう、肩が触れるほどに近くて、愛しいひとつだけを見ているその距離。
 それをどうか僕の正義に。
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