太ももどころか、下着さえ隠せないズボンになってしまった。
 森での転倒は今まで幾度もあったが、ここまで大胆に破れたのは初めての事。
 度重なる戦闘に、丈夫だったはずのズボンも疲弊がたまっていたのだろう。
 今は、情けなく腰にひっかかってる布切れだ。ちょっとセクシーすぎるわよと苦笑し、一瞬だけ気を紛らわす。
 チサトはへたり込むように草叢に身を隠して、さてどうしようかと思索をめぐらした。
 持っているちゃちなソーイングセットでは針が通らない、あってもこんな大きな補修は自分では出来ない。
 安全ピンは、そうだ昨日転んだときに落としたままだった、じゃあ何か大きな布……
 と。紫色の布地が、目の前に差し出された。
 先に赤く丸い石の釣り下がる、さらりとした艶のある布。これの持ち主は。
「アシュトン!」
「は、早くこれ巻いてください! こんなのしかなくて!」
 誰も見ていないと思っていたら、どうやらいたらしい。
 赤い顔で目を力いっぱい閉じている様子からすると、状況まではっきり悟られている。
 ありがたいのか恥ずかしいのか怒りたいのか、混乱したままマントを受け取り、破れたズボンの上から腰に巻いた。
 マフラーのように細い幅だったが、太ももの半ばまではなんとか覆える。
 ひどく気恥ずかしいが、破れたズボンだけよりはずっと安心できる状態だ。
「ズボン、なんとかなりそうですか?」
 アシュトンはこちらに背中を向け、ギョロとウルルンに顔をぐるぐる巻きにされながら、尋ねてくる。
「ありがとうございます。でも、ダメみたい。帰って、ちゃんとした道具があれば縫えると思うんだけど……」
「僕が縫いましょうか? 分厚くても、なんとかできると思います」
「え。でも……」
 この場でズボンを脱いで渡すのは、流石に恥ずかしい。
 このままの姿で一旦帰って……、と想像したところで、はたりと気が付いた。
 アシュトンのマントを腰に巻いて皆の元に戻ったら、この状況に説明が必要だ。
 つまり、説明が必要な状況。
 それも恥ずかしい! なんてことだ。
 第一、せっかく親切で貸してくれたのに、そんな勘違いに巻き込むのも悪い。
 もしも自分が傍観者だったら、何があったのか根堀り葉掘りと聞きたくてうずうずするに違いない。
 借り続ける事自体にも、多少の遠慮がある。直るのならば、望みを託したいのは事実だ。
 アシュトンは依然こちらを見ていない。本当に善意で申し出てくれたのは、彼の性格からしてもよく分かる。
 チサトは意を決して、アシュトンへと疲弊したズボンを託した。

 倒れた太い樹木に腰掛ける。
 アシュトンは振り向かない限りはチサトが見えないよう、彼女の前方に位置する。
 そして腕の鎧を手馴れた様子で外してから、裁縫道具の小さな袋を荷物から出した。
 姿を覗かせる針や糸。使い込まれていると同時に、普段から丁寧に扱われているのがよく分かる。
 チサトのソーイングセットは、安物なこともあるとはいえ、使えればそれで充分という粗雑さ。比べるとなんていう違い。
「これ、鍛冶屋の娘さんが、お礼に作ってくれたんです。細いのにすっごく丈夫で、重宝してるんですよ」
 背後からの視線に気づいたのか、アシュトンは裁縫道具について口を開く。
 針が光に反射し、強い金色が瞬いた。
 何か特別な素材でも使われているのかしら、と思う程に輝きが鋭い。
 それがちくちくとチサトのズボンを継ぎ合わせていく様子は、彼自身の技術も伴って、何かの芸術の域ではないかと思わせる。
 無論、助かったという気持ちがそれを増幅させているのかもしれないが。
「お礼に、裁縫道具……一体何のお礼だったんですか?」
「あ、うん。僕がまだ旅を始めたばっかりの頃に、狼に襲われた小さな村があって」
 アシュトンの昔の話を聞くのは、二回目だっただろうか。
 彼は手許の動きを確かにしたまま、ゆっくりと過去を口ずさんだ。


 その短い話の間に、ズボンは見事な纏り縫いによって蘇っていた。
「できましたよ~っ」
「おおお……っ! ありがとうございますっ」
 感激の余りチサトは喜びの声を上げ、道具を片付け終わったアシュトンの腕に抱きつく。
「はっ、早く履いて! ズボン!」
 まだ履いていなかった。マントの一番上が、ずるりと太ももから垂れる。
「あわわっ。ごめんなさいっ」
 双方赤くなりながら、ズボンを受け渡す。またアシュトンは、龍の目隠しを頭に巻いていた。
 巻いている、というより龍自身が巻きついているとい方が正しいようだが。
 微笑ましさと安堵でチサトはくすりと笑う。
 ズボンをはいて、マントを腰から剥ぎ取る。これで元のままだ。むしろ、もとより履き心地がよく感じる。
「履きましたよー」
 声を掛けると、ギョロとウルルンがしゅるりと離れた。
 ゲホゲホと周囲の酸素を求めながら、アシュトンがこちらを振り向く。締めすぎていたのだろう。
 二匹の当事者達は、せせら笑うように牙を見せていた。
「もー、二人ともひどいや。
 あ。どうです? まだ応急処置ですけど、これでしばらくは持つはずです」
 応急処置というのは、ピンで留めるとかそういった類のものだと思っていた。
 これで充分完治なんじゃないかと思うが、ふとチサトには日常の懸念が過ぎる。
「えーっと。転ばなければ?」
「はい、転ばなければ」
 転ぶ。多分きっと転ぶが、戻るまでは絶対に気をつけよう。せっかく縫ってくれたのだから。
 よし、と気合を込めてこぶしを握る。
「あ」
 アシュトンはそんなチサトを見て、一声だけ漏らし手をかざす。
 え、と疑問が浮かんだ時には、彼女の髪に手が触れていた。
「髪の毛、くしゃくしゃですよ」
 先程まで華麗に動いていた手は、逞しさもぎちりと詰まっている。
 四角い指は赤い毛先に軽く触れて、あとははにかむように手を引っ込めてしまった。
 行為の照れくささに気づいたらしく、こちらを見たまま、指を折り開くのを数回繰り返す。
「つい。えへへ、ごめんなさい。じゃ、行きますか」
「……あ、はい。行きましょ、う」
 彼の照れくさそうな様子が、こちらにまで伝播し、ぎこちなく返す。
 髪に触れると、確かにそうだ。転んでからずっと、触っていなかった。手櫛を軽く通す。
 アシュトンは頬を掻いて、鎧を腕に填めていた。武骨な黒に包まれる腕。
 返却されたマントを羽織り、留めている間に龍二匹が自ずから布に包まる。
 赤い石が螺旋に揺れた。
 先導する背中を追う。道を踏み砕いて、歩きやすい標となってくれている。
 優しい人だな、と思っていた。
 大きな体躯と龍を備えていても、圧倒感があるのは戦闘の時くらいで。
 頼りになる人だとも思っていた。
 素敵だなぁと思うのは、周囲にあふれるごく自然の気持ちだった。
 次第に次第。
 彼を彩る輪郭が、チサトの中で一層濃くなる。
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