::思い出は壊れない話::

■01
 頭上から、短い叫び声がした。
 白い何かが落下してくるのが、視界の端に入る。
 すぐ横に落ちたそれは、乳鉢だった。

 ひび割れながらも、薬草をたらふく身に纏っていた鉢だった。
 同じく薬草臭い手の中で、いつもくるくると回っていた小ぶりな鉢だった。
 それは、硬い石畳に落ちた途端、ピシリと大きな亀裂を見せ裂けた。
 潰された薬草の緑色のにおいが鼻孔を刺激する。

 もう今は既にただの破片となったそれに視線が奪われていると、ため息が遅れて降ってきた。
 この鉢の持ち主の声だった。

■02
「なんだよー、クロードー。受け止めてくれよー……」
 右手に乳棒を持ち、窓枠に寝そべるようにボーマンは呟いた。
 割れたのが、二階からでもわかったのだろう。冗談めかして言うが、消沈しきった声を漏らす。

 受け止められればよかったのだが、真横に落ちたとはいえ、いかんせんクロードは大荷物を抱えていた。
 買い出しの帰りだったのだ。
 数人分の食糧ともなれば、両腕でなければ支えられないくらいにはある。
 そんな場合、『白い何か』としか判別できなかったものを、反射的に受け止めることなどできるわけがない。

「あぶないじゃないですか! また窓で調合していたせいでしょう?」
 理不尽な物言いに苛立ちのまま、反発する。頭に落ちたら怪我をしていた。
 普段から、危ないと指摘しても『大丈夫大丈夫』とボーマンは窓枠にふんぞり返っていた。
 それは楽しそうな姿ではあったし、子どもではないのだから、しつこく言うこともないだろうと放っておいた。
 今日このときも、先程までそうしていたのだろう。
 何かがあって、手を滑らして、このありさま。
 ならば自業自得だ。

■03
 食糧をレナに預けて部屋に戻ると、同室のボーマンは虚脱感を抑えるかのようにソファに身を沈めている。
 割ってしまったことは自業自得にしろ、ここまで物に執着しているのも彼にしては珍しい。
 あの乳鉢は特別に大切だったのだろうか。
 ボーマンの器用で武骨な手によく馴染み、使い古しの良さが染み込んで滲んでいた。
 愛用品、というのはああいうものを言うのだな、と感じたことがある。

「あの。……ボーマンさん」
「あぁ、だよな。破片、片付けに行く」
 重そうに身を起こす。

 慰めの言葉も思いつかないまま名前を呼んでしまい、続く言葉は出てこなかった。
 破片くらい、拾ってきてあげればよかっただろうか。
 うなだれた背中を見送りながら、荷物を抱えていない今の腕では、そう思いつく。

■04
 翌朝、クロードは市場に向かっていた。
 どちらにしても、新しい乳鉢は必要だ。割れた現場を見た手前、少しは気になる。
 洒落た陶器や、頑丈な石皿。さまざまが並ぶ中、この辺りかなと目を走らせれば、すぐに乳鉢は見つかった。
 乳白色の、以前のより少々武骨に見えるが、端正なラインで縁どられた鉢だ。
 乳棒と併せて、この値段ならば程よい具合だろう。

「ほら、ありましたよ。これなんてどうです?」
 これからも一番使うであろうボーマンに、買ってきた乳鉢を、さっそく見てもらおうと浮足立った。
「おう、いいんじゃねえか? 悪くないよ」
 言葉はともかく、口調は上の空だ。視線は寄越しているにしても、品定めのような鋭さはない。
 調合が好きで器具へのこだわりもうるさい彼にしては、投げやりだとしか思えない。
 第一、まだ紙の包みを開いてもいないのだから。
■05
 乳鉢は、すぐさま見てもらえるものだと思っていた。
 正直なところ、とても喜んでもらえるものだと思いこんでいた。

「そんなに大事だったんですか? あれ」
「いや、別に。あんなのはただの物だしな」
 つい癇癪を起こしそうになる。それならどうして、と頭の中がいっぱいになる。
 壊れてしまったものなんか早く諦めて、新しい物を素直に受け取れば、それで済むじゃないか。
「随分古くなっていたし、そろそろ変え時だったんですよ」
「ただな、大事にできなかったなと思ってよ」
 止めていた呼吸を吐き出すように、そう言った。
 肩をすくめて、ニーネから貰った奴なんだ、と告げる。

 紙の包みに手を伸ばし、新しい乳鉢がようやく顔をのぞかせた。
 そうだ、知っていた。あれだけ大事にしていた理由はそれだと、気づかないまま知っていた。
 そういえばあの乳鉢を使うときは、身体に良い薬ばかりだった気がする。毒薬や爆薬とは別格の薬ばかり。
 事実として聞いた今、新しいそれはとても心細いものに見えた。

■06
「ニーネにも言われてたんだよなー」
 窓辺や机の端を椅子にするのは危ない、と何度も忠告されていたと語る。
 最愛の人間に何度も言われてやめなかったのだから、クロードが言っても無しの礫だったのだろう。

「大丈夫だ、って思っててもよ。それが油断なんだろうな。うっかりバランスが崩れちまうんだ」
 そんなことは、わかっていたことじゃないか。
 しみじみと言われて、腹が立った。反省しているのは分かるが、苛立ちを覚えた。
 違うこれは。ボーマンへの怒りじゃなくて。
「あれを渡してくれた時にさ。
 大事にしてよって言われていたこと、壊した瞬間に思い出したんだよ」

 ごめんな、と。
 最愛の人間が目に見える傍にいなくても、声に出してボーマンは謝った。
 それは脳が痺れるように、胸を締め付けた。

■07
「クロードがくれたんだ、今度は大事にしないとな」
 にや、と笑う。
 先程の短いその一言が、彼にとって重要だったのだろう。すっきりとした面構えをしていた。

「僕からじゃなくても、大事にしてください」
「いやぁ。クロードから貰ったから、俺はこれを壊れるまで大事にするんだよ」
 手の中の乳鉢を胸に当てて、ボーマンは息を吹き出す。
 短いため息のような、長い息継ぎのような、束の間の笛のような息。
 クロードを少しだけ照れくさくさせると同時に、悲しさも呻かせていた。

「いっとくけどよ。俺の気持ちは壊れちゃいないからな」
 真新しい色はくすんでいつか忘れても、思い出までが道連れになるわけじゃないから、と。
 そんな当たり前のことを、改めて彼は言う。
 何一つ過去の代用にはならない証明が、新しいものに触れることだというように。

「ありがとうな、クロード」
 感謝に含まれる謝罪の感覚は、薄らぼんやりと胸に張り付く。

■08
 そして彼は、今日も窓辺で調合をする。



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