帰るまで開くなと封蝋された手紙 空より遠いはずの、緑色した匂いが溢れる 時に色褪せるインクの筆跡は優しくて そういえば、あなたの字を初めて見た |
letter. |
迷いがありながら、戦いの殺伐がありながら、幸せな日々を数ヶ月。 夢を見たと忘れた方が、いいのだろうか。 救助の信号は届いていたらしい。 「ケニー少尉ですね」 見慣れた軍服。 それを纏った若い男が話しかけて来た時、クロードは酷く驚いた。 剣が手から滑り落ち、金属と地面が打ち合う。 挙動不審といえる様子に、彼が彼である事を認定したようだ。腕の中の資料ブラウザを閉じる。 痛みを感じるほどの動悸が起きる。 懐かしい筈の道具たちが、見ているだけで酷く息苦しい。 何かの隙に逃げようとしたけれども、共に居た者に腕を取られた。 「ボーマンさん!」 「逃げんなよ」 ひそめていた眉間のしわに、ボーマンはつんと指を当てた。 そんなにも困った顔をしていただろうか。腹を括り、仕方なく相手に向き直る。 「……クロード・C・ケニー少尉です」 階級を名乗ったのは久しぶりだった。 「確認いたしました。アルクラ星系第四惑星、地点E−34……」 露骨な怪訝を示しつつも、男は母船に暗号めいた通信を送り、クロードに通信機を手渡した。 故郷の文化は想像よりも進んでいたようで、知っているものより随分と小型で簡素になっている。 「お呼び致しますので、ご準備を」 そのまま男は無作法な会釈をして、その場から早足に去る。 現地人がいるこの場では、詰問ができないと言わんばかりに。 この星からすぐにでも離れたいと言わんばかりに。 カルナスが謎のエネルギーに消滅させられた件を問われるだろう。 上官に対する数々の命令違反も、記録に残っているだろう。 当然、母の耳にも届いているだろう。 つらつらと浮かぶ。一気に押し寄せてきた焦りに、気分が悪くなってくる。 「どうした? なんだあいつ?」 「僕は、地球人だったんだな……」 忘れる訳がない筈の事を思い出し、故郷で山積みされているであろう事を想像する。 猶予はあと少し、残っていた。 幾つかの言葉を交わす。 「…おう。そうだよなぁ」 ボーマンが呟く言葉は何か含みを持っていて、気弱な笑顔が誘われる。 「しばらくは、ちっとさびしくなるかもな」 けらけらと笑い、クロードの金髪をくしゃりと撫でる。 いつもの様子と変わらないのに、明るさが白っぽく、わざとらしかった。 戻ってこられるか分からない。 言えなかった。 戻ってこられるかもしれない限りは。 あの時のように、左手にあるものを個人の我侭で捨ててしまえばいい。 脳裏をよぎる案。あの行為に後悔はなく、今もない。 しかし、また、今。 今度は何の為にそうするんだ? 混乱めいた思考に憑かれていると、ボーマンが再び口を開く。 「ひと段落したら俺も、しばらく家に帰るとするかねぇ」 「そうですね。それがいいですよ」 多分、それが一番いい。彼にとっても、…彼女にとっても。 独り占めしていた事実に、胸の隙間へと秋風が吹いた。 風が吹く音を背負い、森の中、密やかにある集落に二人は着いた。 最初に流れ着いた時よりも大分復興しており、人々には幾分明るさが戻っている。 活気とまでは到底呼べないが、男手も残り、廃墟のような建物はもうない。 二大王国の共同援助が実質この国を奪い合うためのものだったとしても、今は救いが必要だった。 あと数ヶ月…来たる冬を越すことが出来れば、もう少し住み良くなることだろう。 この途中で抜け出すのが嫌だ…そう考えるのは、正義ぶった我侭なのかもしれない。 集落のみなに故郷へ急に帰る事になった旨を告げると、少し残念そうな顔を向けられる。 必要とされていた。 荷物を布袋に包みなおしていると、通信機が小さな光を点す。…呼んでいる。 点滅を凝視している内、それは不機嫌そうに収まった。 その意味がボーマンにも分かったのだろう。 「またな」 「ええ、また」 差し出された手は、今度は引き止めるためのものじゃない。 情に紛れた想いはどうせ、流されてもいい愛とは違う。 二人は握手を交わした。 微かに笑ったのは、どちらからか。 手は呆気ないほどすぐに離れ、温度が残る。いずれ直ちに消え去る儚い温もり。 クロードは面持ちを隠すように、鞄を背負い、踵を返した。 「…そうだ」 躊躇いを含む声が後ろから上がる。 振り向くと、ボーマンは自身の鞄から紙を取り出す。 「あー、なんだ。その…なんつーの?」 ボーマンはひらひらと指で遊んでから、クロードに突きつける。 やや乱暴なその動きは、照れくさいのを隠すように見えた。 何だろう、と思いながらも受け取ろうとした時、身体が大きく揺れた。 心臓が跳ねる。 鼓動が耳に届くほどの、暖かい距離。 「な」 抱きしめられた。 「元気でな」 戸惑いを包むような低い声と一緒に、背中に回された腕で肩の後ろを叩く。 一回、二回、三回。 テンポのよいリズム。まるで、本当に伝えたい言葉の代わりに。 ごくたまに受けるこの温度に浸る。 「心配しなくても。また、いつか」 「知ってるっつの」 顔は見えないけれど、きっといつもの陽気な笑顔がそこにあるのだろう。 彼は軽口のまま、ジャケットの襟に何かを差し込んできた。 先ほどの紙だと即座に分かる。 身体が離れたので手に取ると、それは灰色がかった封筒。 濃い緑色の封蝋が施されていた。ほのかな薬草の匂いが香る。 反射的に開こうとした時、手の甲を軽く叩かれた。 「帰ったら、だ」 やや朱を帯びた頬で、口を尖らせて言う。 一緒にいる事が多かったのに、いつの間にこんなものを書いていたのだろうか。 いつか、クロードが帰るのだと分かっていたのだろう。 本人はその事から意識を背けていたのに。 違う星の人間だということを、エクスペル人でありながら、分かっていたのだろう。 「分かりました」 鞄の隅に手紙を差し込み、今度こそ扉を出た。 手を振って、別れる。 室内の、陰った場所に居るボーマンの顔は、よく見えなかった。 たぶん笑っている。そんな雰囲気。 これがこの限りの別れだったとしても、なかなかよい方だったと、クロードは思った。 またいつか、逢いましょう。 通信機を通して連絡をし、船の地点までクロードは歩く。 空を駆ける船を見るのは久しぶりだった。 旧型の救助船は、集落よりもずっと巧妙に隠されていた。 特殊迷彩を施す電磁シールドを外してもらい、船内に入る。 空調は快適状態に整っているはずなのに、冷たい空気が身体の芯に流れ込むようだった。 洗浄装置の光を通り抜けると、先ほどの男性が待っている。 「ケニー少尉。荷物をこちらに」 言われるまま、肩の荷物を渡す。すぐさま銀色の箱に入れられた。 検閲がされる。箱の横にある画面に、中身が映っていた。 充填ゼロのフェイズガン、使い潰した万年筆、背表紙の取れかけたノート、ついさっき子供から貰った飴玉、 その他色々……そして、手紙。 「この星には何も残していませんね?」 「ええ、勿論」 彼が聞いている意味としては、何も残していない。 物質を残さない事だけは、気を使っていた。物質でなければ、何とでもなる。 男はキーボードを叩きつつ、続けて問う。 「フェイズガンのエネルギーはどうされました?」 「危険回避のため、ここへ来た当初に切らしました」 とある少女の危険を回避させるために、使用して切らしました。来たばかりの頃に。 その意味のつもりだったが、言った直後、別の意味にとも取れるな、と気づく。 こちらの都合のよい方に解釈をしてくれたようで、追求はない。 「分かりました。この手紙は未開封のようですが?」 「いただいたものです。今の僕に開く権限はありません。もちろん、危険物ではありません」 帰ってから、と言われた意味を歪曲して述べる。 それで納得してくれたらしい。面倒なだけかもしれないが。 「それではボディチェックをいたします。こちらへ」 次の部屋に通される。 回りくどい事務作業にウンザリとしてきた。 エクスペルの単純なシステムに、身体が心地よかったのだろう。 最初はこれでいいのかと不安だったものが、いつの間にか慣れてしまっていた。 入る時、床が遠慮がちに揺れた。 天井の小さなランプが緑色に灯り、重力制御装置が作動中だと示している。 離陸したのだろう。 申し訳程度に覗く窓に、エル大陸が見えた。 宙域に突入した。 永遠の夜が如くの領域。 あとは着陸まで、緊急の事態がない限りは自動操縦の出番だ。 用意された座席に腰掛けたまま、乗組員二人のチェスを横目で眺める。 ホログラフの小さな騎士が、赤いマントをなびかせ馬と進む。 アナログな盤上でも、ノエルとレオンの対決の方が見ていて面白かったな、と思う。 片隅のスピーカーから振動を伝えてくるのは、合成バイオリン音によるロック。 新しい歌手なのだろう、全く知らないものだった。 セリーヌが奏でる、正統派で繊細な旋律が懐かしい、と思う。 このまま耳を傾けるには、少し疲れる。 彼らはこちらを詮索する気はないらしく、コーヒーを出されたきりだ。 そのインスタントコーヒーはもう飲んでしまった。 不味くはないが、アシュトンが拘った厳選豆コーヒーはおいしかったな、と思う。 おいしいといえば、レナ特製のステーキソースは天下一品で、またあれが食べたいと思う。 もし今度アーリアに行けたら、頼んでみよう。 次々と、そんな事が頭をめぐっていった。 感傷的になっているだけだろう、と頭を振る。ユニバースシンドロームだ。 広大すぎる黒の海に、知らない間に圧倒されているだけ。 流れていくのは退屈な時間。 さきほどもらった手紙には、何が書いてあるのだろう、とふと思う。 ふと、と言うには語弊がある。 この二人の前で読む気は起きないにしても、何が書かれているかずっと気にしていた。 結構ロマンチックなところがあるから、意外と真面目に語っているんだろうか? 想像すると、頬が緩んできた。 眉をしかめても止められず、口を両手で覆う。 逆に、そんな期待をさせておいて、冗談めいた一文かもしれない。 真面目だろうが冗談だろうが、彼らしいと思う。 薄い紙の中に、どれだけの言葉が詰まっているのだろう。 どんな言葉が書かれているのだろう。 膝を折りたたみ、行儀悪く椅子の上で足を抱え、丸くなる。 返事は、できるのだろうか。 数日が経ち、退屈との付き合い方が分かった頃。 船は軍用宙港に着いた。 船橋を越えた先には、スーツ姿の母が数人の部下と共に待っていた。 怒られ、苦しいほどに抱きしめられた。久しぶりに見る母は、この短い間にやや老けて見えた。 彼女は周囲に対して気丈にしていたらしく、泣いた時に周りから戸惑われていた。 一瞬の涙を拭い、笑顔を見せると、いつもの若い母になる。 そして部下たちを引き連れ、自身の仕事に戻っていく。 「クロード。あとで必ず家に来なさい」 去りざまに温和かつ絶対的に命令をされ、素直に頷く。 彼女に話したい事は幾つかあり、彼女も聞きたい事が滝のようにあるだろう。 しかし軍の上層部への報告が先だ。 面倒だなと思いつつも、己が容疑者寸前だという事を肝に念じる。 保護法の違反と上官命令違反。あちらに悪意が芽生えれば、戦艦消失の黒幕にもされかねない。 救助と母の様子からすると極刑はないにしても、下手を打ちたくはない。 それからまた幾日か。 カレンダーを確認すると、エクスペルを離れてからもう一週間が経とうとしていた。 報告書に書類整理に、細部に渡る質疑応答。父の墓参りと、カルナス乗務員ら遺族の集会にも行った。 エルリアの塔で捨てようとしたはずの、あらゆる重みが背にかかる。 瞬きのように時は過ぎ、ようやく帰宅の時間が与えられる。 身体を動かし続けていた日々よりも、ひどく憔悴を感じていた。 ぐったりとした身体でモノレールから降り、帰路を行く。 家までの道は身体が覚えていて、朦朧としていたのに迷わなかった。 集合住宅のエレベーターに乗ると、網硝子に橙色の日差しが溶け込んできた。 夕暮れ。魔法に一番近い時間。 疲れた身体には美しすぎて、何もかも奪われそうな恐怖と、安堵を感じた。 玄関前で網膜承認がされ、扉が開く。 母はまだ仕事中だ。 久しぶりの我が家は、少し間取りが変わっていた。 家政婦でも雇っているのだろうか、整然として小奇麗な部屋。 埃もなく壁に並んでいるのは、仲のよい人や家族で映った写真たち。笑顔。 つられて、力なく笑った。 荷物を放り、緩慢な動きで室内着へと袖を通す。脱いだスーツは床に散らかしたまま。 着替えの服が用意されていた、と気づくのはその少し後だった。 冷蔵庫を開けると、お酒の瓶や缶が詰まっている。他には、つまみのようなものばかり。 元々あまり家事を得意としない人だ、仕事や付き合いもある、食事は外でしているのだろう。 小さな瓶を一つ取り、透明なアルコールを飲みほした。 熱い水分が喉を通る。身体を巡っていく熱に、足の力が抜けた。 ずりずりと、壁を背もたれにして倒れこむ。空の瓶が床を転がるのが横目に映る。 部屋の空調が、設定した数値に整えられていくのを感じた。 しばらくじっとした後、重い頭を持ち上げて、這うようにしてテーブルの上にある鞄を引きずりおろす。 エクスペルから持ち帰った鞄。傷が多い簡素な革製の代物。 上にメモディスクが置いてあった。 表面を撫でると、デジタルの文字が表示される。記入は今朝の時間。 この鞄が昨日の日付で届いていたこと、お疲れ様ということ、お酒を勝手に飲むなということ。 もう既に飲んでしまったものは、もっといいもので返せば問題ないかな、と苦笑した。 それと、明日には帰ってくること。 勝手に出て行くな、と言われたような気がした。 メッセージを消した後、母への伝達を入れようとしたが、どうせ会うのだからとやめておいた。 何より、ちょっと照れ臭い。 それはテーブルに戻し、鞄の閉じ金を外して手紙を取り出す。 くるりと電灯の光に、意味もなくかざした。 紙のレターを受け取ったのは、地球では珍しいかもしれない。 ようやく読めると思うと、少し惜しい気がすると同時に、不思議な気力が溢れる。 飾り物のペーパーナイフを小間物棚から取り出し、開封をする。 慣れていないせいか、映画やドラマのワンシーンのようにはうまくいかず、不恰好な切り口を晒した。 ちょっと後悔しながらも、中に入った紙を取り出す。 心が震えた。アルコールのせいだけではない熱が、指先に寄り添う。 かさついた紙の感触は、古めかしい。 四つ折にされたそれを開くと、緑色の匂いが溢れた。 あの人に似た匂い。 遠い空が、今ここに香る。 「ああ、…」 意図せず声が漏れて、ゆっくりと後ろに倒れ込み、床に頭を打つ。 赤い日差しはひんやりとした暖かさ。 紙に視線と意識を奪われる。夕日が奪えるようなものは、ここにはもう殆ど残っていない。 先ほどの匂いは、インクからのもの。 黒みがかった筆跡は、数十年か経てば掠れて消える儚いもの。 綺麗どころか読みにくい程だが、大胆で優しい文字が並んでいた。 こんな字だったかな、と今更ながらに思った。 考えてみれば、今まで一度も見ていなかったと気づく。 あれだけ……一年にも満たない間だけれど、一緒にいたというのに。 何より、書いてるところを見られるのは嫌がって、すぐに隠してしまっていた。 そんな事を思い出して、口元に笑みが浮かんだ。 彼の字を、初めて見た。 まだ知らない事が幾つもあるのだろう。ほんの少ししか知らないのだろう。 綴られている言葉たちの意味を、胸に抱える。 それは、嬉しいほどだった。それは痛いほどだった。 思いもしなかった言葉が、渇望し、何より欲しかったものだと気づかされる。 こんなこと、直接言ってはくれないだろう。 決して甘くない、だけど苦くもない。 ちょうどよいかと言えば、そうとは言えない。 それでも心地よかった。恥ずかしい気持ちもあるけれど。 慌てて書いたのか、最後の方はスペルが乱れている。 グッバイではない末尾。 妙な冗句で文字が狭苦しそうに締めて、紙面は終わる。 もう一度、始めから読み直す。 じわじわと胸をくすぐった。疲れを取り払うように、染みこんでいく。 書いている姿を妙に想像させるのは、ここだけに刻まれた筆跡だからか。 クロードだけに宛てられた、純粋な言葉たち。 紙で顔を覆う。 誰もいないこの部屋で、夕日の中に一人きり、倒れてそして。 帰ろうと、願った。 故郷である此処にいながら、あの地を思った。 地平線を歩くことが、子供じみた我侭になっても。 あれは何一つ、夢ではなかったのだから。 ここにある手紙に、実感する心がざわめく。 あの、緑に懐いた世界へ。帰ろう。 |
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070523 |