暗闇の森で風揺らぐ
紋章の村の穏かな色彩。風が揺れるたび、緑の楽園を奏でる。
クローディアとレンの二人は、港のハーリーに向かう中継地点として、マーズに立ち寄った。
建物や地面に描かれた紋章記号は、クロスで会った女性をなんとなく想起させる。
長老の家を尋ねると、何やら重い空気が立ち込めている。
後でまた伺おうと踵を返しかけた時、聞き覚えのある声がした。
「クローディア!」
名前を呼んだのは、先ほど二人で思い出していたばかりの女性。
「セリーヌさん?どうしてこの村に?」
「どうしてって、ここはわたくしの故郷ですもの」
紋章術の使い手であるセリーヌは、炎が宿る瞳を煌かせた。
村の子供たちが山賊に誘拐され、大金と村の宝を要求してきたらしい。
その伝達を受けた紋章術師の男が語り出す。
奴らは、聖なる結界が張られている筈の『紋章の森』に人質と共に篭城しており、迂闊に手が出せない。
それでも子供たちを救出するため、旅の剣豪と相談をしているところだった。
「ディアス…?ディアス!」
レンはその剣豪を見た途端、跳ねるような声を上げた。
血の色の瞳が、こちらを黙認する。一瞥だけの視線。
レンはディアスという男と、同じ故郷で育ったらしい。久しぶりの再会は、彼にとって嬉しいハプニングだったようだ。
「ディアスなら絶対そんな人たち倒せますよ!誰よりも強い剣士なんだ!」
寡黙な剣豪の代わりに、レンが彼の強さを意気揚々とアピールする。
その剣幕に圧倒されて、紋章術師は少し渋い顔をした。
それは無理もない。彼らが築いてきた術より、剣が強いと主張されているようにも聞こえるのだから。
武具大会を間近に、腕慣らしがてら引き受けたディアスだったが、一つの主張をする。
一人でやりに行く、だれの助けもいらない、と。
レンとの再会を喜ぶ様子もなく、足手まといは必要ない、と言い残し、宿屋へと戻って行った。
「失礼な男ですわ!わたくしの実力を見もしないで!」
セリーヌが甲高い声で不満を叫び、そのままの勢いでレンとクローディアの腕を引張った。
「わたくしも行きますわよ。このお二人だって、充分に腕の立つ戦士ですもの!」
話を聞いた限り、既に見知らぬ態度はできないとはいえ。
まだ引きうけるとも言っていないのに、勝手に彼女は二人を計画に入れた作戦を立て始める。
レンは宿屋へディアスを説得しに向かった。
一人でもディアスはきっと平気だろう。
しかし、目的の森は広く、調査の結果では山賊の数も多い。
アジトを挟み撃ちにするため、二手に分かれる作戦が立てられた。敵に悟られないよう、少数精鋭で。
それを成功させるにはディアスの協力が必要だ。
夕方。
陽射しが朱色に染まる頃、レンは帰ってきた。昔馴染み同士、積もる話もあったのだろう。
心配して家の前で待っていたクローディアに、笑顔で駆け寄ってくる。
どうやら、一緒に戦ってくれる約束を取りつける事ができたらしい。
嬉しそうなレンの様子に、クローディアは穏かに微笑む。
先ほどまでの窮屈な気持ちが一気に晴れていた。
「じゃあ。俺とクローディア、セリーヌさんとディアスが組んで…」
「イ・ヤ、ですわ!」
真っ当な作戦に対し、明らかに感情的な理由で反対をしたのはセリーヌ。
隣にいるディアスも不服そうだ。これは到底、協力が見込めそうにもない。
「…じゃあ、俺とディアス?男女で分けるとか」
「それは戦力的に不安だよ。セリーヌさんも私も、前線に向いてないからね」
クローディアの指摘はもっともだ。ならば、残りの構成は決まっている。
「レン、わたくしとじゃ不満ですの?」
「え。いや、そうじゃないですけど…」
レンの方は問題ない。
ただ問題は、戦力を理解しあっていない初対面の二人を組ませていいものか。
何故か胸に引っ掛かりを覚え、躊躇する理由を彼はそう理由付けた。
しかし、彼にとってはどちらも信頼できる人物であることに間違いはない。
「クローディア、ディアス。いい?」
「もちろんいいよ。よろしくお願いします、ディアスさん」
クローディアが相棒に握手を求める。
すぐ近くに立つと、ディアスの長身は豪傑の獣のようだった。
「足手まといにはなるなよ」
差し出した手は虚しく残る。
ディアスは腕を組んだまま冷たい口調で言い放ち、クローディアとの間にも波風を立てた。
「ディアス〜、仲良くしろって!」
鋼鉄な如くの態度に彼女は少しムッとしたが、なんとか胸のうちに抑え込む。
子供たちを助けるためだ。
それに、レンがあそこまで慕う彼の事をもっとよく知りたかった。
「よろしくね!」
今度は強靭な口調と共に腕を伸ばし、隠れた手を強引に握る。
全身に凍てつきを纏う男の手は、思ったよりもずっと暖かかった。
まだ空気が青白い時間帯、静かに影が動き出す。
「ねぇクローディア。あの男に何かされそうになったら、矢を突き刺すんですのよ?」
出発前にセリーヌがひそひそと耳打ちをしてくる。
寄越したアドバイスは、遠くにいるディアスの、足元よりやや上を指差しながらのもの。
クローディアは赤面しつつ、苦笑いする。
「大丈夫ですよ。頑張りましょうね!レンの事、頼みます」
「ふふ。わたくしの紋章術があれば、無敵ですわ。そちらこそ、無理はなさらないでね」
そして二手に分かれ、違う入り口から森に進む。
村の明るさとは別空間のように、暗く鬱蒼とした木々の世界。
不思議に神秘的な空気を肌で感じるのは、流石に聖域と呼ばれるだけはある。
ただ今は、歪んだ鉄の臭いが煩わしい。
ディアスは剣の柄に手をかけながら、無言で進んでいく。
影に紛れた長い髪と、沈んだ色のマントが鈍く揺れていた。
レンが彼に憧れるのもよく分かる。ディアスの過剰と思われる自信は、力量に充分伴ったものだった。
軍の訓練指導者と比べても、格の違いがはっきり感じ取れる。
行く手を遮ってきた山賊の下っ端などものの数秒で駆逐し、クローディアの出番は殆どない。
それでも彼女は周囲の気配に注意しながら、矢を番えていた。
風が流れる。
レンたちは無事だろうか、と意識が移りかけた時、騒がしい葉擦れの音で気を取り戻す。
「いるぞ」
低く響く声が短く告げる。
確かに、自分達でもレン達でもない気配を感じる。風が瞬くたび、深い緑が囁く。
ディアスが、ある一点で視線を止めた。少し離れた高木の幹に隠れる、小さな人影。動く。
矢だ、と思った瞬間、ディアスがクローディアの前で素早く抜刀した。
駆けてきた矢は骸となって地面に叩きつけられる。
その隙にすぐさまクローディアは弦を矯め、背を反らし、発射元に向けて矢を放つ。
ディアスの右肩の少し上を通り、風を切り裂きながら鋭く走っていく。
影は緑色の喧騒に呑まれる。
安堵の溜息。
「ディアスさん。その、…ありがとう」
二本目に取り出しかけた矢を筒にしまい、敵の襲撃から守ってくれた男に、ぎこちなく笑いかける。
彼がいなければ、矢に当たっていた。外れていたとしても、矢を撃つだけの隠れ蓑も時間も持てなかった。
それを思うと、胸に冷たい汗が這う。
剣豪は剣を鞘に収め、彼女の言葉に首を振った。
「俺は、あの距離では手が出せない。むしろ礼を言うのはこっちだ」
言葉尻に、口の端が少し綻んだように見えた。
幻覚かと思う一瞬は、恐らく貴重なものだったのだろう。
「足手まといと言ったことも訂正しよう」
意外なまでに素直な言葉。
「それと、『ディアス』でいい」
ディアスはすぐ背を向け、また静寂を抱えて歩き出す。
緊張していた頬が、少し緩んだ。
それから幾人かの山賊に迎えられながら、アジトにされた小屋が見えてきた。
廃屋のような外観から微かに聞こえる、男の話し声が二種類。
見張りがいるようだ。最大で二人。人質は小屋の中だろうが、子供の声は聞こえない。
茂みに隠れ、二人は小屋の様子をうかがう。
「レンたちはまだみたいね」
呟く。隠れていて見えないだけかもしれないが、周囲には見当たらない。
開始の合図、セリーヌの紋章術の閃光もない。
「レンがいなくとも、俺が仕留める」
「何言ってるのさディアス!慎重になって。子供たちの命がかかってるんだよ」
鯉口を見せかけたディアスの動きが、その言葉で硬直する。剣が静かに鞘へと収まった。
「それに、レンたちを待とうよ。レンの協力が必要だよ」
「…レンは、強くなったのか?」
幼なじみの名前を口にする時、彼の瞳の熱が和らいだ。
再会した時はやけに冷淡だったが、やはり気になっているのだろう。
「うん、強いよ。私、レンをすごく頼りにしてる」
「そうか」
それに微笑はなく、彼は真摯で熱い眼差しを遠くに向ける。
一体何に思いを馳せているのか、クローディアには分からなかった。
しばらく待っていると、微かな喧騒が耳に触れる。
「これ、レンの声?」
どこかで戦っているのだろうか。耳を澄ますと、比較的近くに思える。
はっきりとは分からないが…どうやら、苦戦しているようだ。
「助けに行った方がいいのかな…?」
「…いずれ奴らにも気付かれる。俺達は役目を果たすべきだな」
ディアスは物音を無視して立ち上がった。
小屋にいる見張りから怒声が上がる。彼は既に、それに切りかかっていた。
突然の出現に混乱した様子だが、それでも敵はディアスを取り囲む。
クローディアは、背に向けていた男に矢を放った。
鋭い一撃を受け、倒れる。残った方がクローディアの存在に気付いたが、ディアスが行く手を遮る。
小屋から、他の山賊が慌しく現れた。三人の武装した男たち。
ディアスは小屋側に回って彼らと向い合い、剣を殺戮的に舞わせる。
クローディアは物陰から、こちらに背中を向けている奴を狙って弓を次々と射た。
「くそっボスはまだ帰ってこねぇのか!」
山賊の一人が錯乱して吐き捨てる。ボスがまだいるらしい。
強固な盾を構えてはいたが、あえなく彼らは倒れていく。
子供たちは小屋の中で気絶をしていた。外の騒ぎや様子を見なかったのは助かる。
誘拐されたのは二人の少年と一人の少女。全員無事のようだ。
「レンたちの方に急ごう!」
恐らく、ボスと遭遇しているのだろう。もう声は聞こえていないが、一体どうなったのか。
心臓の早鐘と共に少年たちを抱えて小屋を出る。
森を進んでいくと、血の匂いが一層濃くなった。
その直後、道に転がる苔色の塊が目に飛び込む。
近くにはレンとセリーヌが息を切らして立っており、すぐに視線が合った。
「クローディア!」
「レン! …これは」
塊の横には、長老の家で見た紋章術師のローブが落ちている。
「山賊のボスだよ。紋章術師の正体は、こいつだったんだ」
「お前が倒したのか?」
ディアスが大きなそれを凝視してから、レンに尋ねる。
「セリーヌさんと一緒に、だけどね」
「なるほど。強くなったな…」
ディアスはレンの頭に手のひらを合わせる。
笑顔だけでなく、頭を撫でるのさえも不器用な仕種。
「えっ、と…あ!子供たちは無事なんだね。クローディア、大丈夫?」
「うん、ディアスのお陰だよ。レンも無事でよかった」
聞きながらレンは、クローディアの抱えていた子供を引きうける。
気絶している様子を見て、この場を離れてから治癒術をかける事にした。
「そうですわ!」
セリーヌが、ようやく整った呼吸で声を上げる。
「お父様がこいつに襲われたらしいんですの!早く村に戻りましょう!」
村はセリーヌの家の前に人が集まり、ざわついていた。
「俺に任せて!」
疲れた身体を駆使し、レンはセリーヌの父に治癒術を繰り返しかける。
その術の効力に、村人たちは驚嘆と尊敬の目を彼に向けていた。
しかしその騒ぎの隙に何処へ行ったのか、青い剣豪が見当たらない。
「あれ?ディアス知りませんか?」
「あら。何時の間にか、そんなに仲良くなったんですのね?」
セリーヌのからかうような口調に、首を傾げる。
それから、ディアスのことを呼び捨てしているからだと気がついた。
「えっ、でも別に…何もありませんよ!?」
「ふふ。レンも早く気付かないと危ないですわね」
それがどういう意味かを問いても、セリーヌは嬉しそうに笑うだけ。
そこにレンが眠そうな顔と不安定な足取りで、家から出てくる。
「エグラスさんの意識、もどりました。あとは安静にしておけば大丈夫だと思います」
その言葉にセリーヌが喜び、家に入っていく。
レンは壁にもたれたかと思うと、へなへなと崩れ込んだ。
汚れを気にする余裕もないし、それも戦いの後では今更だ。乾いた地面に寝転ぶ。
「お疲れさま、レン」
「ん、クローディアもね。…ディアスは強かっただろ?」
視線を合わせるため、クローディアもしゃがみ込む。
レンは眠そうな顔のまま、呟くように尋ねた。
「そうだね。ディアスはすごく強かった…でもレンだって、山賊のボスを倒したんでしょ?」
「うん、だけど。やっぱり強いんだ。ディアスは、強い」
昼間の青い空を瞳に吸い込み、レンは瞼を閉じた。
「クローディア、ディアスが好き?」
寝ぼけたような声が小さく震える。
「え?」
よく聞こえなかった。殆ど聞こえてはいたが、質問の意味が分からなかった。
そのままレンは寝息を立てた。
少年の癖の強い髪が、風に絡まっていく。
「レン、こんなとこで寝ちゃダメだよ?」
言いながら、彼の頭を優しく撫でた。
それから、セリーヌの家に二人は泊まることになった。
夕飯の準備に、調理が得意なレンが嬉しそうに台所に入っていく。
少し眠ったら回復したようで、既にいつもと変わりはない。
リビングではクローディアとセリーヌの父・エグラスが、ソーサリーグローブについて意見を交わす。
エグラスの考察は的を得ており、クローディアは情報不足を痛感する。
このままエル大陸を目指すのは無謀だと警告された。
情報収集や武器を新調するためにも、次の目的地はラクール大陸が妥当だろう。
「そういえば武具大会が近いですわね。あのブッキラボウな男にも、また会えるかもしれませんわよ?」
その街で行われる大会は、戦士ならば誰もが参加すると言われる程の大きな規模の祭らしい。
剣豪のディアスも、恐らく参加するだろう。
「そうですね。ディアスにまた会えたら、レンも喜ぶかな」
「あらあら」
無邪気なクローディアの様子に、セリーヌは楽しそうに肩をすくめた。
「君は、不思議な子だね」
紙煙草を灰皿に置きながら、いきなりエグラスは呟く。
「え!?…そりゃたまに、ズレてるって言われますけど…」
「いや、そういう意味じゃなくて…」
少し言葉を選ぶように瞬きをし、また口を開く。
「私の紋章術師としてのカンだが、君が伝説の勇者と間違われたのも分かるような気がするよ」
勇者。英雄と同列に思える言葉を挙げられて、クローディアはその距離を感じていた。
「いや、そんな事ありませんよ。ただ、レンが…セリーヌさんもディアスも、一生懸命だったから。
私もがんばらなくちゃいけないって気持ちになっただけです」
特別なことを自分だけがしているわけではない。
地球にいた頃では到底行動できなかった様々な事が、今はできていると気付く。
がんばろう、と思う前にがんばれていたのは、彼らのお陰に他ならない。
「ふむ、そうだな…君はやはり、立派だ」
頬の皺が、髭と一緒に微笑む。小さな声は独り言のように囁かれた。
「フシギな力を持つ彼を、その力をまるで気にすることなく見つめている…」
翌朝。晴れ渡る緑が目に暖かい。
王都ラクールを目指して、二人はハーリーへと向かった。
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